実録 亞細亞とキネマと旅鴉

サイトやFlickrの更新情報、映画や本の感想(ネタばれあり)、日記(Twitter/Instagramまとめ)などを書いています。

『スプリング・フィーバー(春風沉醉的夜晚)』(婁燁)[C2009-24]

渋谷のシネマライズで婁燁(ロウ・イエ)監督の『スプリング・フィーバー』を観る(公式)。去年の東京フィルメックス(id:xiaogang:20091128#p4)、今年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(id:xiaogang:20100719#p2)に続いて3回め。

今まで以上に感じたのは、これが中国版かつ現代版『欲望の翼[C1990-36]であるということだ。この映画のなかでまず『欲望の翼』を感じるのは、言うまでもなく羅海濤(陳思成/チェン・スーチョン)が“Chilly Cha Cha”をかけて踊る場面である。しかしそのような表面的なことではなく、全体像が『欲望の翼』であると思った。

それではだれが旭弟(張國榮レスリー・チャン)なのか。『欲望の翼』は、彼を中心とする世界に、いろんな人が入っては出ていく物語である。そうすると、まずは江城(秦昊/チン・ハオ)が旭弟である。物語の中心にいて、その強烈な魅力でいろんな人を惹きつける人物。ラストで彼が王平(吳偉/ウー・ウェイ)の朗読を思い出すところは、旭弟が元警官(劉徳華アンディ・ラウ)に「その女といた」と言うところに対応していると思う。

しかし江城は、旭弟のようにふわふわと地に足のつかない生き方はしていない。この映画に出てくる男女は、みな迷って漂泊しているようだけれども、江城、李靜(譚卓/タン・ジュオ)、王平、林雪(江佳奇/ジャン・ジャーチー)は、自分なりの価値観や生きる基準のようなものをもっていて、基本的にそれを変えない人、変わらない人たちである。ただひとり羅海濤だけが、地に足のつかない生き方をしている。一見、江城が放つ魅力が人々を惑わしているように見えるけれども、彼は基本的に自分からは動かない人。探偵としての調査対象と接触したり(本来してはならないだろう)、ボーイフレンドとの旅行にガールフレンドを連れて行ったりして、関係をこじらせているのは羅海濤のほうである。逆にいえば羅海濤は物語のなかで変わっていく人であり、そういう意味で彼はもうひとりの旭弟である。

公開されてかなり経ってから観たので、それまでTwitterで感想ツイートをいろいろ読んでいて、絶望を感じたという人がかなりたくさんいたけれど、わたしは絶望は感じなかった。5人のなかで絶望したのは死んだ王平だけで、あとの人は絶望しないで生きていく人たちだと思う。しあわせなときや楽しいときが永遠に続くわけではないからこそ、たまに訪れるそういう瞬間が美しいし、それは孤独や喪失感と背中合わせなのだと思う。

俳優は、秦昊もいいけれど譚卓がいい。江城と同様、李靜もひとりで耐える人物だと思うが、その表情の厳しさが尋常ではない。いま中華圏で最も注目すべき女優だと思うので、今後の活躍を期待したい。それから、観ているときは毎回「王平役はもうほんのちょっとかっこいい人がいいんじゃないかな」と思うのだが、観終わるといつも、「まあ彼でいいかも」と思ってしまう。

喪失感をかかえて漂泊する個人というテーマは、前作『天安門、恋人たち』[C2006-46]と同じである。『天安門、恋人たち』が、天安門事件を含む激動の時代を背景にした10年の歳月と、中国国内の様々な都市からドイツに至るまでの広い空間を用意して大きなスケールで描いていたものを、本作は江蘇省の狭い範囲の、ほんの数ヵ月の、あくまでも個人の身のまわりの、とても小さいスケールで描こうとしている。もっと前の作品にも共通する点があるのか、観直してみたい(と思って、実家に『ふたりの人魚』[C2000-24]と『パープル・バタフライ』[C2003-28]のDVDをもって帰る)。また、李靜が買い物から帰ってきたら男二人がキスしていたシーンは、『天安門、恋人たち』の終盤で余紅(郝蕾)が買い物に行くシーンを連想させた。どうやら旅先で女の子は買い物に行ってはいけないらしい。

映像は、記憶していた以上に暗いシーンが多く、モノトーンっぽく感じた。シネマライズは映写環境がよいということなので、これまでと印象が違うのはそのせいだろうか。暗くても映っているものが見えにくいということはなく、暗さが心地よい。これまではどちらかというと外のシーンが印象に残ったが、今回は暗い室内が印象に残った。

舞台・ロケ地は、江蘇省の南京市と宿遷市。プログラムによれば、船に乗っているシーンは洪澤湖とのこと。DVDが出たらぜったい南京に行くぞと心に決めた。

より大きな地図で 映画の舞台・ロケ地 を表示