実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『チェンジリング(Changeling)』(Clint Eastwood)[C2008-22]

昼ごはんは沖縄料理を食べて、午後は渋東シネタワー。いまどき整理番号も座席指定もない入場券と引き換えるのはいったい何の意味があるのかと思いつつ、クリント・イーストウッドの新作、『チェンジリング』を観る。

愛と死と、憎悪が渦巻くレトロタウン、ロサンゼルス(in 1928)。幼い息子が突然失踪した女性が、ニセの息子を押しつけられるという警察のでっち上げと戦ったり、息子が連続殺人事件で殺された可能性が高いという事実に直面したりしながらも、息子を探しつづけるという人生を選びとるまでの物語。ちなみに、この映画に出てくるロサンゼルス警察は、わたしが子供のころから「警察とはこういうものである」と思って恐れているイメージそのものである。

この映画のポイントは、母親のクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)の興味が、一貫して息子を見つけることのみにあるという点である。警察の腐敗を訴えて戦いつづけている牧師が彼女を助けに現れると、これはジョン・マルコヴィッチなのでもちろん応援する。しかしその反面、宗教(キリスト教)が警察の腐敗を正すというような展開になりはしないかという危惧が頭をもたげる。ところがクリスティンは、牧師やその仲間の助けは借りても、宗教にすがったりすることは一度としてない。イーストウッドの宗教観がどうなのかは知らないが、牧師の善意や熱意が描かれる一方で、懺悔を済ませたから天国へ行けるという殺人犯の言葉など、どちらかといえばキリスト教の弊害的な面も描かれている。

この後も、警察の腐敗を告発するのが息子を見つけるための近道だといわれればそれに加担もするし、警察がらみで精神病院に入れられた人々を救うために警察を告訴したりもする。それでも彼女の関心は、息子を見つけることにしかない。殺された可能性が高くなると、これまで善意で支援してきた人たちも、「もう忘れて、自分の人生を歩んだほうがいい」というようなことを言う。マルコヴィッチもそんなことを言ってしまったので、裁判や聴聞会が終わって用がなくなると、もはや画面に出してももらえない。

映画の後半は、子供の連続誘拐殺人犯、無理やりそれを手伝わされた少年、生き残った被害者少年といった、さまざまな立場で事件に関わった人々の声が並べられる。それによって、最初は、供述がないとか遺体が確認されていないとかいった消極的な理由を頼りに息子の生存を信じていたクリスティンが、具体的な息子の生存の可能性を得て、希望をもって自分の生き方を選びとっていくさまが描かれる。賛同はしないけれど、そういう生き方もある。被害者家族にとっては、おそらくそういう生き方が一種の癒しになるのだろう。最終的に見つかったら幸福な人生で、見つからなかったら不幸な人生というような割り切った言い方はたぶんできない。ラスト、胸を張って、ヒールの音を響かせながら彼女が去っていくシーンが印象的だ。

アンジェリーナ・ジョリーは例によってはじめて見たのでふだんの顔がよくわからないが、1920年代後半から1930年代半ばの雰囲気を再現したレトロなファッションがよかった。マルコヴィッチは増毛して、というかカツラで登場していたが、なんだかもうじいさんですね。

映画のあとは有楽町へ買い物に行く。