実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『夜はやさし(Tender is the Night)』(Francis Scott Fitzgerald/森慎一郎・訳)[B1295]

フィッツジェラルドの『夜はやさし』読了。やっぱりわたしは『グレート・ギャツビー』より『夜はやさし』のほうがずっと好きだ。

夜はやさし

夜はやさし

最近、中華系以外の情報に疎くなっている。『夜はやさし』の新訳が出ていたなんてちっとも知らず、今ごろになって読み終わる情けなさ。村上春樹が訳すという噂があったので楽しみにしていたが、彼はこの本に解説を書いているので、自分ではもう訳さないんでしょうね。残念。

わたしは基本的には記憶力に自信がある。特に自分に関すること(いわゆるエピソード記憶というやつですね)にはかなり自信がある。映画や本の場合、それを観たり本を読んだりしたときの記憶、観たり読んだりしながら感じたことや受けた印象の断片、そういった記憶はたいていある。ところがストーリーとなると、どんな話だったのか、結末がどうなったのか、すっかり忘れてしまうことが多い。おかげで何度観たり読んだりしても楽しめる、というより、筋を追わずに描写を楽しみたいのについ筋を追ってしまって困ることが多い。(ちなみに一部の映画評論家のような、一度観ただけですべてのショットを憶えているといった類の記憶力はわたしには全くない。すべてのショットを憶えていればストーリーもわかるのだが。)

夜はやさし』の場合、角川文庫版[B135-上][B135-下]を少なくとも2回は読んでいる。例によって全体のストーリーははっきり憶えていなかったが、断片的にはいろいろと記憶にあったので、読みはじめればすぐに思い出すと思っていた。ところが冒頭から様子が変だ。フレンチ・リヴィエラ? そうだっけ? スイスの精神病院の話ではなかったっけ? ローズマリー? 誰だっけ? そんな人いた?……

第一巻が終わるまで、わたしがこの小説を読んだことがあるという事実を証明するのは、ただディック・ダイヴァーとエイブ・ノースという名前だけであった。第二巻で舞台がスイスの精神病院に移ると、やっとわたしはこの小説がまぎれもなく『夜はやさし』であると確信することができた。しかし第三巻になると、その内容にはほとんど記憶がなかった。

解説まで読んで、わたしの感じたこの印象が、記憶力のせい(だけ)ではなかったことに気づく。『夜はやさし』に2ヴァージョンあることは、村上春樹の『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック[B947](asin:4122017955)で読んで知っていたはずだけれど、日本語で読めるのが片方だけということもあり、すっかり忘れてしまっていた。つまり、以前読んだ角川文庫版はカウリー版と呼ばれる改訂版で、今回出たのはオリジナル版である。カウリー版は、フィッツジェラルドの指示に基づいて順序を入れ替え、死後出版されたもの。オリジナル版は1925年のリヴィエラから始まって、1919年のチューリヒへと戻る。これに対してカウリー版は、時間順序にしたがってストーリーが展開する。順序の入れ替えであり、ストーリー自体が違うわけではない。

あらためて『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』所収の『『夜はやさし』の二つのヴァージョン』も読み直してみた。村上春樹は、

オリジナル版とカウリー版の読者に与える印象の差は決して小さくはないが、その感動の質の差は意外に小さいのではないだろうか、というのが僕のこの二つの版に対する個人的な結論である。(p. 129)

と書いている。両者の印象の違いや良し悪しについては、今でもいくらか言いたいことはあるが、このあとでもう一度カウリー版を読んでから、あらためて書くことにしたいと思う。