『しろばんば』読了。
- 作者: 井上靖
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1965/04/01
- メディア: 文庫
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「死を知って童年時代が終わる」。陳正道(レスト・チェン)の『狂放』[C2004-15]の冒頭で、テーマ的に示されるフレーズである。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の『童年往事 時の流れ』[C1985-34]のテーマとも重なると思う。『しろばんば』は、まさにこの言葉がぴったりの小説である。女学校を卒業した叔母のさき子が湯ヶ島の実家に帰ってくるところから、彼女の死までが前編。御料局に新しい所長が赴任してくるところから、おぬい婆さんの死を経て洪作が湯ヶ島を離れるまでが後編。洪作はまだ小学生という若さで、憧れの叔母と、老人とはいえ親同然のおぬい婆さんという二人の死を経験して大人になっていく。
全体に、洪作の日常が生き生きと描かれていて、おもしろく一気に読んだ。湯ヶ島の中でも部落が違えば敵陣、みたいな狭い世界から、成長するにつれて世界が広がっていくのと、馬車、バス、軽便、鉄道といった交通機関がリンクしているところも興味深い。湯ヶ島の描写に、温泉町らしい賑わいや浮ついた雰囲気が感じられないのは映画と同じだった。文体的には、読みやすいけれども特別惹かれるものはなく、可もなく不可もなくといったところ。三箇所くらい、石守校長に赤を入れられそうな、推敲不足のところがあったのが気になった。さすがに「嘘字」はなかったと思うが。
映画版『しろばんば』は前編をほぼ忠実に描いていて、あらためてよくできていると思った。前編だけでもかなり長いけれど、ダイジェスト的な感じはなく、エピソードが積み重ねられていた。小説では、洪作が感じたことなどがいくぶん説明過多気味に書かれているように感じたが、映画はそのあたりを言葉を用いずに映像化していたように思う。
登場人物は、洪作の母の七重が渡辺美佐子、叔母のさき子が芦川いづみというのがあまりにもぴったりで笑ってしまった。映画を先に観ていると、どうしても映画の配役を念頭に置いて読んでしまうわけで、最初からバイアスがかかっている。しかしそれを差し引いても、もう絶対にこれしかないという絶妙の配役。この二人は真っ先にキャスティングされたに違いない。
「ほんとに怪しいんですもの、怪しいって言われたって仕方がないわ。ねえ、洪ちゃ。それを中川先生ったら、男のくせにびくびくしているの。おかしいわね。洪ちゃだったら、平気よ、ね」(p. 159)
映画にもほぼ同じ形で出てくるさき子のこの台詞は、あまりにもいづみさま的である。てっきり芦川いづみに当て書きされたものと思っていたが、小説にあったのは驚きだ。七重のほうも、映画にはない後編になってさらに渡辺美佐子度が高まるのだからおもしろい。
一方、おぬい婆さんが北林谷栄というのはちょっと微妙だと思った。たしかに映画でのおぬい婆さんはかなり印象的である。しかし、おぬい婆さんはもう少しスケールの大きい、独特の人物なのではないかという感じがして、映画はそれをわかりやすくおもしろく矮小化しているような気がした。また、花柳界の出身という色香の名残りみたいなものが、僅かながらも感じられるのではないかと思う。北林谷栄は、本人のキャラクターがいささか強すぎるような気がする。
また、宇野重吉の石守校長、山田吾一の中川先生もちょっと違う。特に中川先生は、東京の大学を出ていて、いづみさまがすぐに恋に落ちて、生徒にはたいへん人気があるという人物。もうちょっとパッとした人がよかったのではないだろうか(「じゃあ誰?」といわれると、なかなか適当な俳優が見つからないのだが)。