実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ムクシン(Mukhsin)』(Yasmin Ahmad)[C2006-18]

先週末からアテネ・フランセ文化センターで始まった「ヤスミン・アフマド監督作品特集」。上映される長篇6本はすべて観ているし、『ラブン』[C2003-31]と『ムアラフ 改心』[C2007-39]以外はマレーシア盤DVDももっている。しかしながら、その作品のすばらしさにもかかわらず、日本で正式公開もDVD発売もされていないヤスミン監督の映画が、日本語字幕つきでスクリーンで観られるとなれば、たとえ会場がアテネ・フランセであろうとも、行かないわけにはいかない。

噂に聞いていたアテネ・フランセのエレヴェータにはじめて乗って、まずは『ムクシン』を観る。これはすでに2回観ている(id:xiaogang:20061027#p4, id:xiaogang:20070804#p3)ので、今回は行かないつもりだったが、シャッフルで聴いていた音楽で偶然ニーナ・シモンの『行かないで(Ne Me Quitte Pas)』がかかり、これを聴いたらもう行かずにはおれない。

遺作の『タレンタイム』[C2009-18]まで観たあとにあらためて観て、わたしはやはり、この『ムクシン』がいちばん好きで、ヤスミン・アフマドの最高傑作だと思う。この作品は小学生の男女の初恋を描いた小品だが、まずその初恋物語が完璧なまでにかわいく切ない。大貫妙子の歌に、グリークの曲に詞をつけた『みずうみ』というのがあって、「だれにもただ一度だけの夏があるの それは恋と気づかないで恋した夏」という歌詞があるが、まさしくそれである。ちなみにこれはシュトルムの『みずうみ』を意識した詞だと思うが、この小説は映画化されていないのだろうか。すごく好きな小説だし、映画向きだと思われるのだが。

話を戻すと、『ムクシン』はある意味たわいない小品であって、他の作品のように人が死んだり殺されたり、民族や宗教の深刻な対立が描かれたりしているわけではない。しかし、かわいくて切ない初恋物語と、楽しくて笑える家族の物語のなかに、宗教、言語、貧富の差、教育など、マレーシアに存在する様々な問題がさりげなく散りばめられ、メインの物語と絡みあっている。声高に語られないぶん(他の作品だって決して声高ではないが)、さりげなく埋もれている問題を掘り起こす楽しみがある。

スタイル的にも、カメラがあまり動かず、長回し気味のこの作品がいちばん好き。

いちばん好きなのは、前にも書いたように、『行かないで』のレコードをかけるシーン。このシーンの魅力は、まず第一に、歌詞とムクシンの思いがリンクしていること。第二に、家の中にいるオーキッドと外にいるムクシンという配置が、ふたりの仲違いを表すのと同時に、ふたりの置かれている立場の違いを表していること。オーキッドの両親が使用人も対等に扱うような人なので、問題になることはないが、オーキッドの家庭とムクシンの家庭とのあいだには、社会的にも経済的にも、また子供たちが親から受ける愛情にも、明らかな差異がある。明るい部屋の中で家族に囲まれて楽しそうに過ごすオーキッドと、暗い窓の外にひとりぼっちで佇むムクシンの対比は、この差異を鮮やかに表現している。第三に、とても悲しいシーンであるにもかかわらず、スプレー缶みたいなものをマイク代わりにして歌うおじさん(この映画では何の説明もないが、『グブラ[C2005-49]に出てくる、両親が引き取った隣家の青年ですよね)が可笑しすぎて、泣き笑い状態にならざる得ないこと。

ヤスミン監督の前半の作品は、オーキッド三部作とか四部作とか呼ばれているが、わたしはジェイソンが絡まない『ラブン』は置いといて、『細い目』[C2004-32]、『グブラ』、『ムクシン』で三部作と呼ぶべきだと思う。今回特に思ったのは、『細い目』で引き裂かれて終わったオーキッドとジェイソンを、後日結びつけるのが『グブラ』で、前もって宿命づけるのが『ムクシン』だということ。『ムクシン』は、成長したオーキッドのモノローグで綴られるエピローグ部分がやけに長いが、『ムクシン』単体としてはエピローグにすぎないけれど、三部作としてみると実はここがメインだったりする。ムクシンとオーキッドの物語は、ここに至るための長い長いプロローグなのだ。

ところで、わたしはマレー系の男性にはあまり惹かれないが、ムクシン(モハマド・シャフィー・ナスウィプ)はなかなかいい男だと思う。小学生(『タレンタイム』ではだいぶん大きくなっているけれど)に萌えてもしかたがないが、彼をいい男だと思うのは、たぶんちょっと赤木圭一郎に似ている気がするからだ。日本にはぜんぜん「第二の赤木圭一郎」が現れないので、「台湾の赤木圭一郎」楊祐寧(トニー・ヤン)とともに、ぜひとも今後の映画界を担っていってもらいたい。