実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『冬の華』(降旗康男)[C1978-30]

新文芸坐の特集「最後のドン 追悼・岡田茂 東映黄金時代を作った男(チラシ)で、降旗康男監督の『冬の華』を観る。目当ての『山口組三代目』と二本立てで、降旗康男の映画には興味ないけれど、健さんだから観ておくことにする。

冬の華 [DVD]

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関西の組織と組もうとした池部良を殺して服役し、娑婆に出てきた高倉健が主人公。15年のあいだに、社会も組の雰囲気もすっかり変わってしまったことになじめない健さんは、カタギになろうとする。しかし、15年前と同様に、関西と組むか戦争をするかという選択を迫られる状況になり、ふたたび同じ立場に追いこまれていくというお話。これに、身分を隠して養育している池部の娘・池上季実子との関係が絡められている。

はっきりいって、ポスト仁侠映画時代の健さんのイメージビデオ。無口で不器用、みたいな。もしかしたら、この映画でそのイメージを確立したのかもしれないが。とにかく、雰囲気だけで中身がない。なぜやらねばならないのか、なぜなら健さんだから、みたいな。

健さんが主人公としてばーんと出ずっぱりで、そのまわりに組長の藤田進とか、その息子の北大路欣也とか、元の子分や兄弟分の田中邦衛夏八木勲寺田農峰岸徹とか、池上季実子とか、いろんな人がいるけれど、みんなちょっとずつ健さんと関わるだけで、がっぷり組む人がいない。だからドラマがぜんぜん動いていかない。関西と組むとか組まないとか、娘と会うとか会わないとかも、抽象的な観念だけで雰囲気が醸成され、生々しい実質みたいなものがない。

15年前と同じ構図になるというのがこの話のキーだけれど、池部良から小池朝雄ではふたまわりくらいスケールダウン。そこで全く同じ台詞が吐かれるのは、もはやギャグでしかない。健さんとしてはやらねばならなかったとしても、この殺人によって、組にとっても彼にとっても未来が開けるわけではない。それならば、そういう無益なことをやらねばならない無力感や虚しさが描かれているかというとそうでもない。やっぱり雰囲気だけ。ムードの映画。

幹部に小池朝雄、天津敏、山本麟一と、往年の方々が顔を揃えているのはうれしい。池上季実子の女子高生(あれはフェリスですかね)はかなり「なんちゃって女子高生」度が高く感じられたが、実はあまりおかしくない歳だったようだ。

バーか何かのシーンで、レコードかラジオか有線かわからないけれど、小林旭の『昔の名前で出ています』が流れていたことを記しておく。 その前に小林亜星が歌うシーンもあるけれど、これはどうでもいい。というかもう聴きたくない。「マイクもらうぜ」には笑ったけれど。