実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『心の魔(心魔/At the End of Daybreak)』(何宇恆/Ho Yuhang)[C2009-12]

今日の一本めは、今回いちばん楽しみにしていた映画で、何宇恆(ホー・ユーハン)監督の新作、『心の魔』(アジアの風部門)。わたしたちは映画を観て、こういうショットがよかったとか、ああいうショットがよくなかったとか言うが、そんなのはしょせん後づけの理由にすぎないと、この映画を観ながら思った。そもそもフィルムの緊張感みたいなものがぜんぜん違う。理由なんかなくても、いい映画はいいのだ。

家業の雑貨屋を手伝いながらふらふらしている23歳の紱仔(徐天佑/チョイ・ティンヤウ)と、15歳くらいの、日本でいうと女子中学生の盈(黃明慧/ジェーン・ン・メンホイ)のカップルとその家族を描いたもの。この映画に善人といえる人は出てこない。すごい悪人もまた出てこない。世界中で日常的に起きていて、たいていの場合は深刻なトラブルには至らずになんとなく解決されている事件。それがちょっと歯車が狂ってしまい、殺人事件にまで発展するさまを描いている。セックスシーンや殺人シーンといった中心部分は描かずに、その周辺だけによる描写が見事である。盈が買ったパンツの使われ方もよい。

なにより女優たちがすばらしい。まずヒロインの盈を演じる黃明慧。意志的なまなざしとぱっつん前髪の組み合わせが個性的ですごくいい。胸の谷間が気になって、さすがに中学生ではないだろうと思ったが、高校生くらいかと思って観ていた。ところが10歳もサバを読んでいたらしい。なんちゃって女子高生には厳しいわたしもすっかり騙された。盈は、反抗的にふるまいつつも親の庇護を離れて自分の意思を貫く気などない、無責任で身勝手な娘だが、なにか簡単には傷つかないぞというタフでクールな雰囲気がみなぎっていて、かなり好感をいだいてしまう。

それから紱仔の母親を演じた惠英紅(クララ・ワイ/クララ・ウェイ)。強さと脆さを併せもち、美しくしなやかで、嫌味のない色香が漂う母親像が強烈な印象を残す。紱仔の家の中のシーンは、熱帯の暑さと湿っぽさ、ふたりで生きてきた美しい母と息子の濃密な関係、にじみ出る汗と色香が、緊張感をはらんだ濃厚な空気を作りだしていて圧倒的される。

紱仔と盈の関係が露見してから、画面に映っている範囲では、この親子は「刑務所には入りたくない」「お金を払うしかない」といった会話しかいていない。しかし実際には、結婚するとか殺すとかの選択肢についても議論していたのかと思わせる場面もある。いやむしろ、そういったことは一切話していないが、母親のそのような考えが自然に息子にも伝わっていたのかもしれない。そういった精神的な共犯関係のようなものを、この母子は漂わせている。

ところで、紱仔の母親は、別れた夫くらいしか金を工面するあてがなく、相談する人もいない。マレーシアの華人社会といえば、絆が強く、互助組織も充実しているというイメージがある。華人が古くからのチャイナタウンだけではなく、郊外や新興都市に分散して暮らすようになって、そういった華人社会の絆はうすれてきているのだろうか。去年観た『ポケットの花(口袋裡的花)』[C2007-41]でも、父親が育児に手がまわらず、幼い兄弟が危うい暮らしをしているのに、近所の人が気づくでもなく助けるでもなさそうなのに、同様の感想をもった。

前作の『RAIN DOGS(太陽雨)』[C2006-15]は、きわめて限定された形ではあるが一般公開されたので、この映画もぜひとも公開してほしい。何宇恆監督は間違いなく、次の10年の最も重要な監督のひとりである。

上映後は、何宇恆監督と黃明慧をゲストにQ&Aが行われた。ナマ何宇恆監督は二度めだが、この人を見ると安藤昇を連想する。真ん中分けっぽい髪型で現われた黃明慧は、映画の中ほどの魅力は感じられず、ただのきれいな人という感じだったのが残念。