実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『こころ』(市川崑)[C1955-28]

今日の映画は、またまた神保町シアター森雅之特集。観客は老人だらけ。フィルムセンターやラピュタ阿佐ヶ谷ほどシネフィル受けしていないせいか、ほんとに老人ばっかりで、わたしより若いかもしれない人は2人しか見かけなかった。

ふつうは市川崑の映画なんて観ないのだが、漱石ものなのでいちおう観ておくことにする。『こころ』は漱石の小説の中では比較的人気が高いが、わたしは比較的好きではない。『それから』を連想させるストーリーはおもしろいけれど、どう考えても最後に先生が殉死するのが納得いかない。いくら天皇ではなく「明治の精神に殉ずる」と言われても。だいたい明治の精神って「富国強兵」という感じで印象が悪い。

さて映画は、表面的には漱石の『こころ』をわりにソツなく映画化している。しかし、本当のところはどうなのか。

帝大生の野渕(森雅之)と梶(三橋達也)は親友同士。野渕は、貧しい暮らしをしながら「道」を極めようとする梶に自分と同じ下宿を紹介し、なにかと面倒をみる。いっしょに旅をして、熱く見つめ合うふたり、ほほ笑みをかわすふたり、時に抱き合うふたり。そこに割って入るのが下宿の娘、静(新珠三千代)である。ファム・ファタルというか、漱石のいうところのアンコンシャス・ヒポクリットなのだろう。キャピキャピと無邪気に梶を誘惑する。梶は「道」も忘れて、女がすべてになってしまう。そんなことは「誰にでもあるこっちゃ」なのだが、真面目な彼は思い悩み、野渕に相談する。すると野渕は、彼に娘を嫁がせたい下心みえみえの下宿の奥さんに談判し、婚約をまとめてしまう(森雅之だけにやることが素早い)。それを知った梶は自殺する。

梶の自殺の経緯は何も知らない静と野渕は、女学校と大学を卒業するとすぐ結婚する。しかし野渕は良心の呵責にさいなまれ、梶が乗り移ったかのように暗くなっていく(『午後3時の初恋』[C2007-35]か?)。そして13年が過ぎ、野渕に新しいお友だちができる。帝大生の日置(安井昌二)である。最初は喜んでいた静だが、野渕を「先生」と慕う日置と楽しそうにしている野渕に、次第に疑いを抱くようになる。野渕と梶の関係は、いったいどんなものだったのか? そして野渕と日置の関係は? こうして静は野渕を追いつめ、ついに死に追いやる。そうして静、つまり新珠三千代は世間体を保つのである。すなわち『女の中にいる他人[C1966-03]である。なかなかおもしろい。

1955年時点でのおおよその年齢。森雅之43歳、三橋達也31歳、新珠三千代24歳、安井昌二26歳。みなさん微妙だが、とりあえず森雅之の帝大生はちょっと、いやかなり、いやものすごく無理がある。ふつうこういうのはロングショットを多用したりするものだが、アップバリバリである。そのたびに「老けた帝大生ですねえ」と言いたくなるのをおさえるのがたいへんだ。ほとんどドリフの寸劇の世界である。新珠三千代の女学生も、落ち着いたイメージのせいか、年齢ギャップはそれほどでもないのに、モノクロでもわかるハデハデ衣装とぶりっ子演技にかなり無理があった。

いまどきの映画なら激怒するほどアップが多用されていたが、昔の俳優は最近にくらべてアップに耐える顔なので、それほど気にならなかった。帝大生の森雅之を除いては。あと、笑いをとろうとするシーンが二、三あって、あざとく感じられた。そこでロケしているのかどうかわからないが、雑司ヶ谷霊園のシーンは美しかった。