渋谷アップリンクで、ニコラウス・ゲイハルター監督のドキュメンタリー、『プリピャチ』(公式)を観る。
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- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2013/02/22
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インタビューを受けているのは、10人くらいの様々な立場の人たちで、それぞれの立場から異なる体験や見解が語られる。原発が危険だとか危険でないとか、放射線が怖いとか怖くないとか、政府の対応がいいとか悪いとかいった、単一のわかりやすいメッセージに収斂していかないのがいい。ここで語られていることをまとめると、だいたい次のようになる。原発事故後30キロ圏内は立入制限区域に指定されて住民はすべて避難し、境界では出入りの制限と警備・監視が行われている。しかし、その後戻ってきて住んでいる人もいる。境界地域では、移住を希望しているのにいまだに順番が来ずに住み続けている人々がいて、彼らには必要な生活支援がなされていない。人の出入りは厳重に管理されているはずなのに、避難した人々が残した財産は略奪されている。事故を起こしていない原子炉は再稼働され、原発や付随する研究所で働く従業員は、毎日外部から通っている。彼らの安全は厳しく管理されているが、それでも危険や不安と隣り合わせである。研究所では、汚染された水質の改善など大局的な研究が行われ、住んでいる人々に対する安全性の確保や情報の提供は行われていない。
いいとか悪いとかではなく、ゾーンでもいろいろな人間ドラマが展開されていることに静かな感動をおぼえる。出てくる人のなかで、特に興味を惹かれるのは、ゾーンに戻って暮らしているアンドレイさん、オリガさんご夫婦と、事故の前からずっと研究所で働いているジナイーダさん。アンドレイさんたちのように内部被爆の影響を受けにくい中高年が、住み慣れたところで暮らしたいと願う気持ちは誰にも止めることはできない気がする。人によってものごとの優先順位は様々だし、彼らの地に足の着いた暮らしがうらやましくも思える。
ジナイーダさんは、ゾーンからは何も持ち出せないから、職場で着る洋服を別に用意しなければならないと言っていた。最初のうちは古い服やどうでもいい服を職場用にもってきていたかもしれないが、そんな暮らしが続くうちに、きっと今は、「春になったから新しい服を買いに行こう。外用のと職場用の」という感じになっていると思う。インタビューを受ける彼女はネックレスをしていて、あれも職場用のアクセサリーのはずだけど、もしかして「今日は映画の撮影があるからネックレスをしよう」と思ってもってきたとしたら、それはその日から二度とうちへはもって帰れない。もちろん仕事が続く限り職場へ行けばいつでも会えるわけだけれど、何であれ職場へもって行くにはある種のお別れが必要だ。そんなことを考えて、彼女のネックレスがとても印象に残った。みんな放射線は恐いかとか不安はないかとか、そんなことばかり聞きたがると思うけれど、それはあるにしても日常いちいち感じることではない。ゾーンで働くということはつまり、「このネックレスは二度と外ではつけられない」ということなのだ。切ない。
ジナイーダさんが前に住んでいたプリピャチの家を見に行くシーンもあった。ゴーストタウン化しているということで、廃墟好きとしてはちょっと楽しみでもあったのだけれど、コンクリートのアパートが立ち並ぶ新興住宅地のプリピャチは、『ゴーストタウン』[C2008-48]よりも『ヘヴンズ ストーリー』[C2010-28]を連想させた。生活の匂いの残り香のようなものが切ないが、略奪によるモノのなさもまた悲しい。
この映画を観て、原発とかウクライナ政府とかに憤りを感じる人もいるだろうが、わたしが感じたのは、わたしたちもこうやって生きていくんだな、ということだ。わたしたちは日々様々な危険と隣り合わせに生きているのだから、実際問題として、放射性物質とも一緒に生きていくしかない。30キロとか安全な線量とか保障の基準とか、そういった数値を決めて杓子定規に適用すれば済む話ではない。これからフクシマでも、きっといろんな人間ドラマが展開されていくことだろう。
最後に、これはとてもいい映画なのに、原発事故が起きなければ公開されなかったというのがとても切ないと思う。