実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『みれん』(Arthur Schnitzler)[B1376]

帰りの電車で、シュニッツラー(森鷗外訳)の『みれん』を読了。一見、演歌みたいなタイトルだが、原題は『死ぬこと(Sterben)』。

みれん (岩波文庫 緑 6-3)

みれん (岩波文庫 緑 6-3)

主人公は、ウィーンに住むフエリツクスとマリイという若いカップル。フエリツクスが余命あと一年とわかり、それをマリイに打ち明けるところから、フエリツクスが実際に死ぬまでを描いたもの。

ウィーンや転地療養先の季節の移ろいのなかに、フエリツクスとマリイの心理の変化が克明に描かれている。特に、マリイの心理がリアルすぎてこわい。フエリツクスの死に対する認識が、「ぜったい嘘だ、死ぬはずはない」というところから「間違いなくもうすぐ死ぬ」というところまで変化していき、それにつれて彼の病気や死をどう捉えるかも変わっていく。

世の中には、死ぬとわかっているのに、あるいは治らないけれども当面死にそうにないのに、かいがいしく看病や介護をする夫婦や親子がたくさんいる。そういうのを見るたびに、わたしにはぜったいできないと思うのと同時に、彼らは心の中ではどう思っているのだろうと考える。その答えというわけではないが、この小説は「やっぱり」と頷かせてくれるところがたくさんある。たとえばこんな感じ。

……その内病人がうめくので驚いて見に行くのである。併し自分の病人に對する同情が次第に薄らいで來る。憐憫が變じて神經過敏になつて、苦痛が變じて恐怖と冷淡との混合物になつて來る。併し自分が惡い人になつたとは思はれない。いつか學士が、あなたは天使のやうだと云つたが、さういふ褒詞を受けて恥ぢなくてはならないやうな氣はしない。今のやうに冷淡に傾いて來たのは、それは疲れたのである。極端に疲れたのである。もう外へ出なくなつてから十日以上になる。なぜ出ずにゐるのだらうと考へて見る。さうすると病人をおこらせまいと思つて出ないのだといふ事が、新しい發明のやうに心に浮ぶ。無論側にゐるのがつらいとは思はない。あの人を愛してゐる事も決して昔に劣らない。唯自分は疲れたのだ。……(p. 117)

 いよいよおしまひになつたらどうだらう。この「おしまひになつたら」といふ事を思て見ても、もう別段驚きもしない。心の底の恐ろしい願ひを、「當人も樂になるのだから」といふ偽善の同情で覆ひ隠す、この如何はしい詞が口の内に浮んで來ても、もう驚かなくなつてゐる。さうなつたらどうだらう。女は自分の體が外の庭に出て腰を掛けてゐて、その顔が青ざめ、目が泣き腫れてゐるのを見るやうに思ふ。併しこの悲哀の徴は只上邊ばかりである。心の内には、これまで久しく味はずにゐた、嬉しい平和が來てゐる。見てゐる内に其姿が立ち上つて柵の外へ出て、道をゆつくり歩いて行く。もうどこへでも自由に行かれるのである。(pp. 172-173)

実際には、経済的な問題とか、家族の問題とか、介護自体の辛さとか、いろいろなことが複雑に絡みあってくると思われるが、この小説ではそのような心配はすべて省かれた状況で、純粋に心理的な面が追求されていて、よりリアルに迫ってくる。

ところで、この小説が書かれたのは1894年、森鷗外が翻訳したのは1912年である。数十年前に翻訳された小説の日本語が賞味期限切れになってきているのに対して、100年近く前に翻訳された日本語は、なぜかぜんぜん古びて感じられない。

ヰイン(ウィーン)で出てくる場所は次のとおり。

ザルツブルヒ(ザルツブルク)で出てくる場所は次のとおり。

  • ミヨンヒスベルヒ山
  • クウルパルク公園
  • ザルツアハ河