実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『グッド・キャット(好猫)』(應亮)[C2008-33]

東中野へ移動して、ポレポレ坐(公式)でパンプレートの昼ごはん。それから地下のポレポレ東中野(公式)へ。最近、中国映画といえば、政府の肝いりで経済力にモノをいわせた大作映画や合作映画が注目を集めているようだが、わたしはそんなものには全然興味がない。魅力的な中国映画は、地上の片隅や地下にあるに決まっている。そこで中国インディペンデント映画祭2009(公式)である。昨年は行けなかったが、今年はできるだけ多く観るつもり。

まずは三年ぶり應亮(イン・リャン)監督の『グッド・キャット』。タイトルのもとになっている黒猫と白猫の話を聞くと、わたしはいつも『唐獅子牡丹』を歌ってしまう。

あいかわらず舞台は四川省自貢市。ロングショットとフィックスの長回し中心のスタイルも健在。繰り返し写し出される主人公の家の前や郊外の開発予定地が印象的。

しかし今回は、不動産開発という、その不安定さ、あくどさ、バブリーさなどがわかりやすすぎる世界をテーマに選んだことで、なにかわかりやすい社会風刺映画になってしまっているような気がする。『あひるを背負った少年(背鴨子的男孩)』[C2005-24]も『アザー・ハーフ(另一半)』[C2006-24]も、非常に個人的な話と社会や国家、ドキュメンタリーのようなリアルとスケールの大きい非リアルが混沌としながら一体になって、得体のしれないパワフルな映画になっていたように思う。『グッド・キャット』では、主人公の羅亮が、景気のいい不動産会社に勤めていて、田舎の親戚からは出世頭としてチヤホヤされる一方、実際の仕事は運転手兼雑用係であり、妻やその家族からはバカにされているという対比などはおもしろい。しかし、個人的な話がすぐに社会的な問題につながってしまって、どうもスケール感やパワーに物足りなさを感じる。

ほかにこれまでと違うと感じたのは、主人公がかなり愛すべき人物に感じられたこと。現状に満足してしまっているところとか、大学の講義で寝ているところとか、わたしとしては非常に親近感を抱いてしまった。映画では、彼がいつも子供たちにからかわれていたり、バイクやガスが故障したりするのを繰り返し描いている。実際は悲惨な彼の状況を描こうとしているのだろうが、まだ20代だし、別にそんなに悪くないんじゃないのと思えてしまった。そんなところも全体的にインパクトが小さかった理由ではないかと思われる。

この映画の非リアルな部分は、突然バンドが現れて、風刺的な歌詞の歌を歌うところ。これはとてもおもしろかったが、音楽が全く好みではないため、毎回けっこう長いこれらのシーンはそれなりに苦痛も伴っていた。