実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『星のフラメンコ(天倫淚)』(森永健次郎)[C1966-46]

藤沢のハローワークへ失業認定に行ったついでに(どこがついでじゃ)、ラピュタ阿佐ヶ谷(公式)へ「歌謡曲黄金時代 1960's」特集の『星のフラメンコ』を観に行く。少し時間があるので阿佐ヶ谷駅前の西友へ行き、激しくショックを受けた。なんと、ここの西友には無印良品がなかったのだ。無印のない西友があるなんて今まで知らなかった。そんなの珈琲のないクリープみたいじゃないか。

『星のフラメンコ』は家では何度も観ているが、やっとスクリーンで観ることができた。西郷輝彦が引揚げで別れた台湾人の母親を探しに台湾へ行くという話で、ストーリー的には星ともフラメンコとも全然関係がなく、『星のフラメンコ』の歌詞ともあまり関係ない(多少はあるか)。

この映画を語る視点として、次の三つが挙げられる。歌謡映画としての視点、日台/日中間の歴史にかかわる視点、台湾ロケ映画という視点である。

まず歌謡映画としての視点。この時代に数多作られた、ヒット曲を冠した映画のなかには、タイトルと内容が全く関係ないだけでなく、特に説明もなく主題歌が繰り返し流れるものも少なくない。しかしこの映画の場合、関連はないものの、『星のフラメンコ』という曲自体は、物語のなかにしっかり位置づけられている。孤児である西条英司(西郷輝彦)、チノ(松原智恵子)兄妹の親代わりである作曲家、財前公之助(嵯峨善兵)の新曲としてである。

まず、台湾行きが決まった英司が帰宅すると、ラジオから『星のフラメンコ』が流れ、チノから「財前のおじさんが作った新曲」として紹介される(ここで不自然に聴き入る西郷輝彦のアップ)。次に、台湾行きを財前に報告するため英司がNTVスタジオを訪ねると、ちょうどこの曲の収録が行われている。三度めは、英司が台北の街を歩いていると、レコード屋からこの曲が流れてきて思わず足を止める(わざわざ「こんなところでこの歌を聞こうとはな」という台詞が入る)。これをきっかけに、彼は母親探しのキーとなる林氏の娘、彩虹(藍芳/李月隨/井上清子/光川環世)と知り合う。そしてラスト。林家でのパーティの席上、英司は『星のフラメンコ』を歌う。伴奏つきのレコードの音声が流れ、多少控えめではあるが、ここはほとんどMVモード(でもさすがに一番のみ)。最後の「♪星のフ〜ラ〜メ〜〜〜ン〜コ〜〜〜♪」にくると「終」が出て、後奏の終了と同時に映画が終わる。あざとさと節度が絶妙のバランスを保っており、歌謡映画としてはなかなかの出来だと思う。

挿入歌として同じく西郷輝彦の『湖にゆこうよ』も使われていて、これは彩虹の姉でヒロインの華琴(汪玲)と湖(澄清湖)で逢ったときの回想シーン(ここに限らず、回想シーンはすべて、周囲が白くぼかされている)。ほかに、西郷輝彦が『赤とんぼ』や『田道間守の歌』を歌うシーンもあり、歌謡映画としてはサービス満点。

第二に、日台/日中間の歴史にかかわる視点。ここがもう、突っ込みどころ満載というかほとんど意味不明である。この映画は一見、日本が戦前・戦中に行ったことの責任と贖罪というテーマを描いているように見える。しかしまず第一の問題は、それを担わされているのが(日本人と結婚した)台湾人であるということだ。英司の母・周英麗は、日本に留学して日本人と結婚しており、親日的で裕福な台湾人家庭の出身と考えられる。英司の父は「エンジニア」というだけで台湾で何をしていたのかはわからないが、植民地統治の一端を担っていたと推測される。周英麗自身も国民学校の音楽教師をしていた可能性があり、そうであれば皇民化教育の一端を担っていたことになる。

だから彼女が、日本がしたことの責任を引き受けようとするのは理由のないことではない。彼女自身の言葉によれば、「あの時代、日本人の妻として幸せな一時期を過ごしたわたしには、彼ら(註:日本軍に家族を殺された台湾人)の憎しみを受ける義務がある」ということだ。これが台湾映画なら問題ないかもしれない。しかしこれは、日本人が主要な人物を演じる日本映画(台湾では合作扱いだが)である。日本がしたことの責任を引き受けようとする日本人がいて、そこに台湾人も混じっているというのならまだいい。ところがこの映画には、日本が過去にしたことの責任を引き受けようとするような日本人は、ただのひとりも出てこない。台湾人である周英麗だけが、そのような役割を担わされている。これでは、日本人が当然負うべき責任を、一部の台湾人に押しつけているようにとれる。台湾の映画会社の協力のもとに、台湾人俳優が出演し、大半を台湾ロケで撮る日本映画において、いったいどういう意図でそのような設定をしたのだろうか。これを観た台湾人がげきいからなかったのか不思議である。

次に、彼女が償おうとしている日本の行いはいったい何なのか、というのが問題になる。この映画では、日本が台湾を植民地統治したことについては直接語られていない。明示的に言及されているのは、上にも少し書いたように、日本軍が大陸での戦争で人を殺したということである。その犠牲になった人の多くは大陸人のはずだが、ここでは彼らに対する言及はなく、「大陸に渡った台湾人」だけに言及されている。周英麗は「高雄には、戦前、大陸に渡り、家族を日本軍に殺されてひとりぼっちで引き揚げてきた孤児たちがたくさんいる」と言っているが、それは大陸から逃げてきた外省人ではなく、ほんとうに引き揚げてきた子供たちなのだろうか。

この映画においては、外省人本省人、中国人と台湾人の区別は一見曖昧にみえるが、実は出てくる人はすべて台湾人・本省人である。台湾人・本省人と大陸人・外省人は厳格に区別され、大陸人・外省人に対する日本人の罪はもとより、大陸人・外省人の存在そのものさえ無視されている(唯一の例外は、林氏が英司に、「台湾には戦後大陸からたくさん人が来ました」と語るところである)。林氏も、周英麗が「台湾のものは台湾へ返したい」と言っている以上本省人でなければならないが、「台湾人の土地を奪って成り上がった実業家」という想定に外省人のにおいを感じてしまうというのは気のせいだろうか。林夫人の装いも外省人っぽいし。

このあたりはもしかしたら台湾側の何らかの意図が反映されているのかもしれないと思わないでもない。台湾側の製作会社がどういうところなのかはわからないが、『金門島にかける橋』[C1962-V]と違って政府・国民党系ではないと思われる(飛行機もキャセイだし)。

そして最も問題なのは、周英麗が償いのために何をしたか、ということである。彼女は、夫とは関係なく親から譲り受けたと思われる土地家屋が騙し取られたのを許し、夫や子供のいる日本へ行くのを諦め、「台湾に残って各地を歩き、日本の歌を教えて歩く」と言う。「日本の歌のあたたかさ、よさが、やがて何年かのちに、台湾の国土に日本への親睦を育ててくれたら。彼らの恨みを忘れさせてくれたら」と言う。

はなはだ不思議な話である。日本統治時代には、日本の歌が学校で教えられていたはずである(彼女自身、教えていたのではないのか?)。周英麗が教えて歩かなくても、ある年代の本省人はみな知っているだろう。もちろん、戦時中大陸にいた人や外省人は知らないかもしれないが、「どこか台湾の山奥か海辺で、日本の歌を聞くことがあったら、そこは母さんの歩いたところです」って、そんな馬鹿なことがあろうはずはない。

とにかく不思議な映画なので、脚本の倉本聰氏には、この映画の内容が、日本側、台湾側のどのような意図のもとに固められていったのか、ぜひ語ってほしいものである。

第三に、台湾ロケ映画という視点。ロケ地は、台北市台北縣淡水鎮、高雄市、高雄縣鳥松鄉。おもだったところについては、[亞細亞とキネマと旅鴉]の『星のフラメンコ』ロケ地ページ(LINK)に掲載しており(ただし情報が古いかもしれない)、あまり語ることはない。高雄火車站(現・高雄願景館)、延平河濱公園、台北新公園(現・二二八和平公園)、台北植物園、龍山寺、澄清湖(未訪問)など、ロケ地の多くは現在もあまり変わらずに残っているところであり、ロケ地めぐりには便利である。一方、街並みなどはあまり映っておらず、台湾ロケの割合が多い割に、当時の台湾の様子がわかるような風景の魅力はいまひとつである。貴重なのは、建て替え前の台北市延平區太平國民學校(現・台北市大同區太平國民小學)と台北火車站、今はなき淡水火車站が映っていること。ちなみに街中でのロケでは、「あっ、映画の撮影やってる」という感じでそのへんの人がじっとカメラを見ているのがやたら目につく。

なお、英司は台湾生まれ、台湾育ちと考えられる。おそらく1940年生まれくらいなので、ごく小さかったとはいえ、10数年ぶりに台湾へ来たら、懐かしさなど何らかの感慨があるのがふつうだろう(『バンコックの夜』[C1966-39]ではそうだ)。それが、まるっきりの異国に来たようなそぶりなのがどうにも解せない。

また、汪玲の日本語吹き替えがヘンすぎる。北京語部分まで日本語と同じ調子で吹き替えられていて、なおヘンである(発音もヘン)。汪玲演じる華琴が日本語を話せる理由もわからない。半分くらいは吹き替えのせいだとしても、汪玲は演技自体も大げさでヘンだ。

うさぎやとはらドーナッツに寄って帰る。