実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『忍法忠臣蔵』(長谷川安人)[C1965-40]

新宿で少し買い物をしてから阿佐ヶ谷へ移動。今日はうさぎやが開いている日曜日なので、まずはどらやきをゲット。それからラピュタ阿佐ヶ谷へ行き、ロビーの椅子で珈琲を飲みながら食べる。一度食べくらべをしないといけないが、どうも阿佐ヶ谷うさぎやどらやきが、いちばん大きくてうまい気がする。

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集は「CINEMA忍法帖」。今日観たのは長谷川安人監督の『忍法忠臣蔵』。忠臣蔵映画を制覇したいという目標があるし、主演が丹波哲郎だから。「伊賀忍者の無明網太郎は六人の女忍者を束ねて、赤穂浪士を一人ずつ骨抜きにして脱落させる」というチラシのストーリーから、エロくて脱力系のトンデモ映画を想像していたのに、そうでもなかった。

ひとむかし前の観客は、みな忠臣蔵の筋をよく知っていて、ストーリーに必然性をもたせる必要はなかっただろう。彼らは、おなじみの名場面がどのように描かれていて、おなじみの登場人物を人気俳優がどう演じているかを観にくるのだ。ところが、「どれが主人公?」「どっちがいい人?」というレベルで忠臣蔵に参入したわたしは、やはり「忠義」というところに引っかからざるを得ない。たとえ親や恋人が殺されても、仇討ちなどというものには反対だが、仁侠映画の場合はそこに必然性があるかのように描かれており、とりあえず個人的な信条には目を瞑って感情移入することが可能だ。一方、浅野内匠頭は、みなから慕われ、リーダーの資質をもち、親同然にかわいがってくれる親分とは違う。どちらかといえば、我慢するようにとの健さんの言葉を聞かず、ひとり勝手に殴りこんで殺されたうえ、組を窮地に陥れる子分の長門である。そんなもののために、「忠義」とかいう抽象的な概念に従い、自分の命も家族の生活もなげうって仇討ちをするなんてオレはヤだね。

この映画は、その「忠義」に着目したものである。「「忠義」なんてクソ食らえ」と思っている主人公、無明網太郎(丹波哲郎)は、千坂兵部(西村晃)に頼まれて、赤穂浪士が仇討ちを諦めるよう工作する。しかし、歴史的にみても討ち入りは行われたわけで、そこをどう収拾するかといえば、「討ち入りは忠義のためではなく、公儀の不正に抗議するためだ」と大石内蔵助(大木実)に言わせ、タンバはそれに賛同して協力する。というわけで、全体的な筋立てとしては、いたってまともな映画である。

忠臣蔵に対するこのような見方は『赤穂城断絶[C1978-V]と似ている。『赤穂城断絶』は視点が新しいと思っていたが、まだ正統派忠臣蔵映画が作られていた60年代にも、すでにこのような見方はあったわけだ。しかし、『赤穂城断絶』はおもしろいのに、『忍法忠臣蔵』はあまりおもしろくない。その原因のひとつは、討ち入りの意味があっさり台詞で語られてしまうことにある。

全体の筋立てはともかく、観客が注目するのは、仇討ちをやめさせるため、女忍者が赤穂浪士を誘惑するところだろう。しかし、これがさっぱりエロくもなければ、おもしろくもない。考えてみれば、まだ60年代だし、成人映画でもないのだから、期待するのが間違いなのかもしれない。そもそも最初に、西村晃がタンバを試すため、女忍者たちにタンバを誘惑させるのだが、このシーンの女忍者たちが見ていられないほどひどい。あれではタンバでなくても誘惑されないだろう。

とりあえず大石内蔵助大木実なのは悪くなかった。でもタンバが忍者だというのはどうも馴染めない。忍者がたくさん出てくるわりには、タンバが将軍や殿様の寝室を覗く以外に、忍者の必然性も感じられない。タンバファンとしては、女忍者に赤穂浪士を誘惑させるより、タンバが赤穂浪士の女を誘惑したほうがおもしろいと思う。