遅めに出京して新宿へ。セガフレードで早めの昼ごはんを食べてから、新宿バルト9で是枝裕和監督の『空気人形』(公式)を観る。
李屏賓(リー・ピンビン)撮影、蠔斗娜(ペ・ドゥナ)主演というとっても豪華な映画。空気人形すなわちラブドール(Wikipediaによれば、ダッチワイフとは違うんだね)ののぞみが心をもってしまうという物語。彼女は心だけではなく、歩いたり見たり聞いたりする身体的機能と言語も獲得する。それにもかからわず、これらが「心をもつ」という表現で代表されていること、すなわち「はじめに心ありき」なのがユニークだと思った。それらの能力ははじめからあったが、心をもたないために「歩こう」とか「話そう」とかいった意志をもたず、したがってその能力を行使することができなかった。そう考えれば、たしかに「はじめに心ありき」なのかもしれない。しかしこの物語は、いろいろなことばや意味や概念は獲得したけれど、比喩までは理解できなかったために起こる悲劇である。そう考えると、やはり「はじめに言葉ありき」なのではないか。
そんなことよりこの映画は、なんといっても蠔斗娜あっての映画である。ストーリーだのメッセージだのの前に、彼女のちょっとぎこちない動き、似合いすぎるメイド服、ぎこちない日本語、歩きながら口ずさむ『仁義なき戦い』[C1973-13]の音楽(タタタタタタタタタタタタッタ♪)、空気を吹き込まれるときの官能的な雰囲気…、つまりは蠔斗娜の魅力を堪能すべきだ。映画館を出て、ちょっとぎこちなく歩いている自分に気づいたら、あなたはもう「空気人形ごっこ」の虜である。
彼女が外国人であることは、言語獲得の途上にあるぎこちない話し方を表すのに役立っているが、外国人だろうと日本人だろうと、これ以上のキャストはないだろう。この映画は「代用品」についての物語でもあるが、彼女の代用品は、あることはあってもかなり劣るに違いない。
とはいえ、蠔斗娜はもうすぐ30歳。それが顔に出ていないと言ったらウソになる。ぴったりな配役だけど、年齢的にはかなりヤバい。日本のアイドルのデビューは低年齢化しているし、日本よりはデビュー年齢が高い他の東アジア諸国でも、以前よりは低年齢化していると思う。しかし不思議なことに、観る映画観る映画、「年齢的にヤバい」と思ったり書いたりしているような気がする。未知数の若い子を使い、魅力的に撮りあげてやろうというような意欲的な監督はいないのだろうか。
ほかの出演者も、ARATA、オダギリジョー、富司純子など、豪華というか通好みというか(富司純子のババアぶりにはショックを受けた)。しかし、オダギリジョーが演じた人形職人の役は、李添興(ジェームス・リー)監督にやってほしかった(オダギリジョーのほうがずっと興行価値が高いのは言うまでもないけれども)。もちろん、『ポケットの花』[C2009-08]で彼が演じたマネキン職人からの発想だが、考えてみれば李添興の『美しい洗濯機』[C2004-09]は、「洗濯機が心をもつ物語」ともいえる。
李屏賓が写した東京の街は、いい意味で小汚くて、台湾映画よりも韓国映画を連想させた。李屏賓がとらえた東京の街と蠔斗娜。物語の成り行きは考えず、目の前のシーンを堪能していたので、けっこう意外な展開を純粋に楽しめた。ゴミのつながりかたに感心。個人的には、この映画からあまり単純なメッセージを引き出したくはない。後半、だんだんメッセージ色が強くなる感じがして、『生命は』という詩が引用されたりするのは、わかりやすすぎてあまり感心しなかった。特に最後のたんぽぽ。なんですか、あれは。
誇張して描かれたいっぷう変わった登場人物たちは、たしかにみな孤独で、内部に空虚なものを抱えている。しかし、果たして彼らは不幸なのだろうか。わたしは必ずしもそうではないと思う。人とつながることは、たしかに心の空白を埋めることなのかもしれない。しかしそれはまた、空虚を生み出しもすれば広げもする。だから人とつながらなくていいなどと言うつもりはないが、孤独に耐えることも、孤独を楽しむことも、孤独や空虚さと折り合いをつけながら生きていくことも、人間ならではだと思うのだ。
最後に、公園にパンダがいたことを付記しておく。『誰も知らない』[C2004-04]につづいて「パンダ映画」に認定。