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『戦う女たち - 日本映画の女性アクション』(四方田犬彦、鷲谷花・編)[B1361]

『戦う女たち - 日本映画の女性アクション』読了。

戦う女たち――日本映画の女性アクション

戦う女たち――日本映画の女性アクション

冒頭にある鷲谷花氏の『撮影所時代の「女性アクション映画」』の見取り図に従って、美空ひばり藤純子、安田道代、東映ピンキーヴァイオレンス、志穂美悦子の女性アクションが個別に論じられ、最後にふたたび鷲谷花氏の『ポスト撮影所時代の「女性アクション映画」』で締めくくられるという構成。取り上げられている映画でわたしが観ているのは、実は『緋牡丹博徒[C1968-06]シリーズの半分くらいと『0課の女 赤い手錠』[C1974-27]くらいである。しかし、全体が映画史的な流れの中に位置づけられているので、観ていない映画についての論文もおもしろく読めた。だからといって、美空ひばり志穂美悦子の映画を観る気にはやはりならないのだが、安田道代は好きなので、『セックスチェック 第二の性』とか『女左膳 濡れ燕片手斬り』とか観てみたい。

女性アクションを成立させる条件は、時代によって変化しながらも、実はサイレント時代から今日まで、少数の決まったパターンのバリエーションでしかないということがわかって興味深かった。しかしながら、それぞれの映画がどういう観客に向けて作られて、どういう観客に受容されたかといった点までは踏み込まれているが、時代との関わりや、男性アクションとの非対称性についてのもう少し踏み込んだ論考が読みたいと思った(今後もっと深く研究されてほしい分野である)。

女性アクションについて考えるのは簡単なことではない。論じられていることを個別にみると、それなりに納得はできる。ちょっと違うんじゃないかと思うところもある。しかし「果たして本当にそうなのか?」と考え始めると泥沼である。実は、暴力というものを基本的には認めない自分と、それでもアクション映画が好きな自分がいて、そこになんとか折り合いをつけながら生きている。その「折り合い」は個々の映画に対してそれぞれにあり、全体として自分を納得させ得る論理が構築できているわけではない。女性アクションについて考えることは、そういった踏み込みたくない領域に踏み込まざるを得ないことを意味する。したがってここでは、各論考について深く言及しないでおくことにする。

とりあえず『緋牡丹博徒』シリーズについてだけ一言。斉藤綾子氏の『緋牡丹お竜論』には、シリーズが進むにしたがって、お竜のアクションの内容や、助っ人的な男性との関わりかたが変化していると指摘されていた。シリーズ8本中、わたしが観ているのは加藤泰作品を中心に5本。しかも順を追って観ていないので、そういった点には気づいていなかった。以前から、順を追って全作品観たいとは思っていたが、これをきっかけにぜひとも実践したい。ただ、加藤泰の3本が異質なのはずっと感じていた。『緋牡丹博徒』シリーズの中でというより、仁侠映画の中で異質というべきだと思うが、わたしはそれをひそかに「エログロ」と呼んでいた。この論文の中では「メロドラマ」と呼ばれている。