実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『あなたなしでは生きていけない(不能没有你)』(戴立忍)[C2009-05]

遅めに出京し、品川のエキナカで昼ごはん。それからJ先生は山へ芝刈りに、いえ、六本木へいづみさまを観に。わたしは川口へ、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭(公式)に行く。ほとんど埼玉県に行ったことのないわたしは、川口なんて遥か遠いところだと思っていたが、戴立忍(レオン・ダイ)監督の『あなたなしでは生きていけない』が上映されると聞き、調べたてみたら意外に近かった。

『あなたなしでは生きていけない』は、入籍していなかった妻が失踪して以来、ひとりで娘を育ててきた父親が、娘を学校に通わせるため戸籍登録しようとして法律の壁にぶつかり、次第に絶望していくというストーリー。身分証明書がないといえばアボルファズル・ジャリリの『ぼくは歩いてゆく』[C1998-16]が思い出されるが、少年本人が職を得ようと奔走する『ぼくは歩いてゆく』のほうがパワフルで明るかった。『あなたなしでは生きていけない』のほうは、とりあえず議員に頼んじゃったりするところがいかにも台湾っぽくておもしろかった。

といっても、この映画は、戸籍取得の問題を扱ったものというよりも、父と娘の深い絆を描いたものだ。世間との関わりをほとんど持たないふたりの日常生活では、父親、娘というだけでなく、互いに、母親、夫や妻、友人といったさまざまな役割をも演じている。戸籍問題によってふたりの穏やかな生活が脅かされはじめると、ふたりは、たったふたりだけで世界と対峙し、世界に向かって闘いを挑むパートナーの様相をみせはじめる。その姿は、微笑ましくも痛ましい。

無学な父親、李武雄を演じる陳文彬、娘の妹仔を演じる趙祐萱、そして武雄の友人を演じる林志儒は、いずれも映画初出演だそうだが、みんなすごくいい味を出していた。陳文彬は侯孝賢(ホウ・シャオシェン)を思わせる風貌で、林志儒は寺田農がとろけたみたいな雰囲気。妹仔は「この父親にこの娘が?」と思ってしまう利発そうなかわいい子だが、早く大人になることを余儀なくされる環境からか、時おり見せる大人びた表情が印象的だった。陳文彬と趙祐萱の父娘は、強い絆で結ばれながらも危ない雰囲気は感じさせないが(それでいいと思う)、監督の戴立忍が主人公を演じていたら、もっとヤバイ雰囲気になったかも。

主な舞台は高雄で、台北も少し出てくる。モノクロで撮られていて、ディジタルであるにもかからわず映像は美しかった。モノクロの台湾はほとんど見たことがないので新鮮である。主人公が住んでいる漁港は旗津だと思われ、対岸に東帝士85國際廣場がくっきりと見えていた。台北では、立法院と内政部警政署、總統府、それから忠孝西路の天成大飯店の近くの歩道橋などが出てくる。台北から高雄に帰る途中で風車が出てくるのは「またかよ」という感じ。シーンとしては悪くないが、台湾映画に風車はちょいと食傷気味。

總統府といえば、万策尽きた主人公がふらふらと總統府に向かっていくシーンがある。私服の警官がこの男を怪しいと思って密かに指示を出し、制服の警官が一斉に彼をとりおさえようとする。政府機関が集中するあのあたりでは、実際にこのような私服警官を何人も見かけたことがある。私服だけどすぐにわかってしまうので、一度目につくとだんだん気になってくる。行く先々で見かけたりすると、つけられているのではないかと不安になったりもする。ほんとうに怪しいと思われたらどうなるかを見せられ、リアルに感じると同時にちょっと恐くなった。

エンディングのクレジットを見たら、音楽を『時の流れの中で』[C2004-12]に出ていた蔭山征彦氏が担当していたが、音楽は過剰だったと思う。張作驥(チャン・ツォーチ)の映画みたいな感じだったらよかったのに。

上映後は、主演だけでなく製作・脚本も担当している陳文彬をゲストにQ&Aが行われた。特筆するような内容はあまりなかったが、モノクロにしたのは余計なものをそぎ落としてシンプルにしたかったからだと言っていた。陳文彬も戴立忍も、黒澤明が好きだというのにはがっかり。