実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『日本語が亡びるとき - 英語の世紀の中で』(水村美苗)[B1333]

日本語が亡びるとき - 英語の世紀の中で』読了。買おうかどうしようか迷っているうちに、妙なところで話題になっていたので、もう買わなくていいやといったんは思ったが、ユリイカで特集されていたのでいまさらながら買ってしまった。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

ユリイカでの水村氏のインタビューを先に読んでいたこともあり、基本的には好意的な姿勢で読もうと思って読みはじめる。「祖国」とか「憂国」といったことばや、わたしのきらいな福沢諭吉が出てきたり、部分的に引っかかるところ、賛同しかねるところはあり、意外とものを知らないと思ったり、参考文献が貧弱だと思ったりもした。しかし、「一章 - アイオワの青い空の下で〈自分たちの言葉〉で書く人々」「二章 - パリでの話」「三章 - 地球のあちこちで〈外の言葉〉で書いていた人々」「四章 - 日本語という〈国語〉の誕生」「五章 - 日本近代文学の奇跡」まではなかなか興味深く読んだ。特に、『三四郎』を「翻訳」というキーワードで読み解いているのがおもしろかった。

しかし「六章 - インターネット時代の英語と〈国語〉」に入って愕然とする。ここにきて一気に著者の主張が出てくるのだが、これまで曲がりなりにも例示や論証という形で進められてきていたのが、突然、著者の思い込みのみで猪突猛進しはじめるのだ。

ここで書かれていることはふたつ。ひとつは、「日本の近代小説はすばらしかったのに、最近の文学はロクでもない(しかもロクでもないものが売れる)」ということである(固有名詞は出てこないが、著者は村上春樹がきらいなんだろうと思った)。この本は、英語にまつわる問題を前面に出してはいるが、著者がほんとうに言いたいのはこちらなのではないか。わたしも著者の言っていることに、ある程度賛同しないわけではない。しかし、わたしは生きている人の書いた小説はほとんど読まないから、ほんとうにそうなのかどうかわからないし、漱石はわたしも大好きだが、昔の小説ならなんでもいいわけではない。そもそも、現在進行中の同時代の作品を、評価の定まった過去のものと同じ土俵で比較し、評価するのはおかしいだろう。

もうひとつは、「英語の世紀」ということである。英語が実質上言語ヒエラルキーのトップにあり、重要性が高まっていることは認める。英語みたいな汚らしい言葉がそういう地位にあることへの嫌悪感や、アメリカをバックにした英語帝国主義への危機感もある。でもわたしは、今が英語の世紀だとか、今後世界が英語一辺倒になるとかは全然思わない。だから、この本の最初から折にふれて語られる危機感に、いちいち「なんでそんなに?」と思わざるを得ない。おそらく著者の意見は、彼女がアメリカで苦労して英語で学問をしてきた経験に基づくものなのだろうが、そのあたりの経緯があまり書かれておらず、とにかく事実としてそうなんだということになってしまっているのにかなり違和感を感じる。

言語を異にする人々の交流が増えていくなかで、共通の言葉がないと不便である。だからとりあえず英語を共通語としておく。それは既定の事実だし、今後もそれは変わらないだろう。しかし、国境を越えて共通に使われている言語は英語だけではない。内容やメンバーに応じて、英語以外のさまざまな言語も共通語として使われるだろう。それはたとえば、中国語やスペイン語アラビア語やフランス語で、日本語もたぶんそのなかに入る。地域主義的な動きが強まっていることもあり、今後そのような言語の数はある程度増えていくだろうとわたしは思っている。

「英語が〈普遍語〉になり、叡智はもっぱら英語で蓄積されるようになる」ということが、著者の危機感の中心である。一方、著者はまた、日本語が〈国語〉として成立していく過程で、翻訳を通して、普遍的な内容を書ける言語となったと主張する。それは、もとよりその地域の個別の内容を表現できている言語が、普遍的な概念も書けるようになったということである。一方〈普遍語〉としての英語は、英語圏以外の社会や文化の個別の内容を表現することはできない。だとすれば、叡智は、〈普遍語〉ではない〈国語〉レベルの言語で蓄積されるということになりはしないか(もちろんさまざまな事情から、それでも英語で書かれることがそれなりに多いことは認めるが)。なお、〈普遍語〉とか〈国語〉とか〈現地語〉とかの用語について、著者の想定をそのまますんなりとは受け入れがたいところもあるが、それについてはここでは言及しない。

英語を母語としない、英語圏以外で生活する人にとって、最初から英語で書いても、母語や国語で書いたものを翻訳しても、結局のところ、書かれたものからは重要なものが抜け落ちてしまう。それなら、最初から英語で不完全なものを書くより、不完全ではないものを自分の言語で書いたほうがいい。英語で書くのか、日本語で書いたものを英語に翻訳するのか、日本語で書いたものをさまざまな言語に翻訳するのかは、対象や目的やコストに応じて選択されるだろう。少なくとも文学や人文科学は、対象となる地域の言語と切り離せないし、世界に向かって作品や研究を問うだけでなく、対象地域の社会を変えるべき使命も負っている。英文学者としての漱石は英語で書くかもしれないが、作家としての漱石は英語で小説を書いたりはしないとわたしは思う。

日本文学のすばらしさを世界の人に知ってもらうには、たしかにまず翻訳されなければならない。しかしある程度認知され、すばらしさが伝わったらどうだろう。もちろんさらに多くの翻訳が求められはするが、一方で、日本語を勉強して原語で読んでみようという人も現れるはずである。

また著者は、「インターネットが英語化を促進する」という聞き飽きた主張もしているが、わたしはこれにも納得できない。もちろんそういう面もあるが、インターネットの普及はまた、多言語化を促進してもいる。日本語の小説など売っていない国からでも青空文庫にアクセスできるし、地球の裏側でひとり寂しく日本文学を読んでいる人も、ネットを通じて日本の読者や研究者と交流できる。多言語化については著者もふれているが、鼻で笑って切り捨てている。しかしそれが英語の普遍語化を前提としているからといって、簡単に切り捨てられることではないと思う。

たぶん、著者はメジャーな現象を見て嘆き、わたしはそんなところをいまさら気にしてもしかたがないから、片隅で起こっているマイナーな現象に希望を見出しているのだと思う。だから実際には両者の主張はそんなに隔たってはいないのかもしれないが、ものを見る視点というか姿勢みたいなものがかなり違っているんだと思う。

「七章 - 英語教育と日本語教育」は、「日本語が亡びないために、学校教育で近代小説をがんがん読ませろ」と言っている。国語教育をもっと充実させるべきだというのには賛同する。学校教育には膨大な時間を費やすし、我々の貴重な税金が見も知らぬハナタレ小僧の教育費に使われるのだから、文部科学省には質のよい教育を提供してもらわなければならない。しかしわたしは、「学校で教わることは文部省の謀略かもしれない」、「先生の言うことは嘘ばっかりかもしれない」と思って育ってきた。それに子供は強制されるのがなによりもきらいだ。だからどうも手放しでは賛成しかねる。また、テストも感想文もなしに本をがんがん読ませるという考えはすばらしいが、その目指すところは「ゆとり教育」と同様であり、その帰結もまたゆとり教育と同様に、能力の高い生徒、レベルの高い学校しか成果をおさめることができないのではないのだろうか。

それから、著者は書きことばに過剰に規範性を求めているように思う。優れた書きことばに規範性があることは認めるが、書きことばだって変化する。話し言葉ほど速くはないが、やはり今の時代を描くのにはそれにふさわしいことばがあり、それにふさわしい文体がある。漱石の作品に出てくるようなことばを使ってみたり、文体をまねてみたりするのは愉しい。しかしそれは個人の趣味で選びとるべきことであり、強制されるべきものではない。

日本語が亡びないために、世界で流通する主要な言語のひとつとなるために、日本(政府)がすべきことは何か。わたしは水村氏とは違った視点で、ふたつのことを挙げたいと思う。

まずひとつめは、日本語にまつわる負のイメージを払拭するよう努めることである。すなわち、台湾、朝鮮、中国、南洋等の植民地化、侵略、占領の歴史を直視し、謝罪、賠償を行い、二度とそのようなことがないように、その反省に基づいた教育や政治を行うこと。日本語に関していえば、当時の日本語教育の経験を研究し、その成果や課題を今後の日本語教育や語学教育に生かすこと。

ふたつめは、漢字の統一である。日本語は、ほぼ日本国内でしか使われていない言語なので、その点では主要な言語になりにくい。しかし漢字を使っている漢字圏はかなり広く、実際、日本語と中国語が構造的に大きく異なっていても、筆談である程度のコミュニケーションが可能だし、漢字によるクロスリンガル検索もできる。しかし、現在のところ漢字圏では、繁体字簡体字、日本の漢字の三種類が使われており、これらの違いを越えた検索はほとんどできない(日本語内部では、旧字、新字の違いを無視した検索がかなりできるようになっている)。

せっかく漢字という共通の文字を使っているのに、これは著しく不便である。いまさら統一するのはかなり困難ではあるが、そのような運動をしていくべきだ。その場合、個人的な好みに加え、戦前は日本でも使っていたことや歴史的な蓄積から、繁体字を採用すべきだと思う。でもどうしても中国がイヤだと言ったら、簡体字を採用してもいいから統一したほうがいい。パソコンの時代になり、簡体字はすでにその役割を終えていると思うけれども(それなのに、今ごろになって簡体字を採用するシンガポールやマレーシアっていったい…)。