実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『鳳鳴―中国の記憶(和鳳鳴)』(王兵)[C2007-37]

口の中は血の味だが、特に痛くもならないので予定どおり出京。ポレポレ東中野へ、「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー―山形in東京2008」(公式)の初日に行く。この企画は、毎年気になっていながら行けないでいたが、今年こそは行くぞ。今年の目玉はオキナワと中国で、今日は中国。ずっと観たかった王兵(ワン・ビン)の『鳳鳴―中国の記憶』。東京のふつうの映画館で上映されるのは初めてだから、さぞかし混んでいるのかと思ったら、満席ですらなくてがっかり。

映画は、和鳳鳴というおばあさんが「解放」後の半生を語るのを、固定カメラでひたすら写したもの。そういう映画だと聞いていたので、もしかしたらしんどいのではないかと危惧していたが、全く退屈することなく、3時間はあっという間だった(しかしそうは思わなかった人もいたようで、ため息やイビキや荷物をガサゴソさせる音がたくさん聞こえてうるさかった)。語られる内容が興味深いので、それだけで全然退屈しないのだが、彼女の語りが非常にリズミカルであることも、観客を惹きつける魅力である。

鳳鳴は、反右派闘争から文化大革命で迫害された女性である。記録に残すべき体験をしていながら、みずから語る言葉をもっていない人たちに対して、インタビューによって言葉を引き出していく、そういうタイプのドキュメンタリー映画が世の中にはたくさんある。この映画は一見そのような映画と似ているが、実は大きく異なっている。鳳鳴はみずから語る言葉をもっている。質問に答えるという形ではなく、みずからどんどんしゃべる。キャメラはただそれをひたすら見つめつづけるだけである。

ほとんど最後になって明らかになることだが、鳳鳴はすでに自分の体験を本にまとめて出版している。現在は、反右派闘争で右派とされ、労働改造農場に送られた人たちの生き残りを探し、反右派闘争が公式に全否定されることを求めて戦っている。そういう意味で、この映画は、歴史の記憶を文字に残そうとしている鳳鳴と、映像に残そうとしている王兵とのコラボレーションであるといえる。

鳳鳴の語りの中心は、彼女が遭った迫害の記憶であるが、この映画は単なる迫害の記録ではない。純粋に革命に情熱を抱き、共産党を信頼していた彼女が、「革命」に絶望していく過程の記録であり、そしてまたそこから再生するまでの記録である。文革中、与えられた仕事をサボることをおぼえたり、再審請求を通すためにコネを使うことをおぼえたりするところは、次第に堕落していく記録であるともいえるのだが。

この映画で語られる内容が、すでに書籍として世に出ているということで、この映画の存在意義を問う声もあるようだが、それは小説を映画化することを否定するのと同様の愚かしい意見だと思う。書かれた言葉と語られた言葉がどの程度一致しているのかはわからないが、文字には表せない様々なニュアンスを含む本人の語りであること、そしてそれが一回限りの「この」語りであることが、書物と映画の大きな違いである(そういう意味では、この映画は演劇を写した映画に似ているかもしれない)。書くことによってすでに一度外在化された内容であることにより、多少の重複はあるものの、74歳の女性にしては驚くほどきちんと内容が構成されている。また彼女の語りは淡々としていて、泣き崩れたり怒りをあらわにしたりといった派手な身振りをすることはない。しかしそれでも、彼女は時に言いよどみ、時に言葉につまる。別の語りでは、それらは別のかたちをとるかもしれない。わたしたちはそういった微妙な語りのゆれに、彼女の感情のゆれを感じることができる。それが一回かぎりの「この」語りの魅力である。

キャメラは、ソファに座って語る彼女をほぼ正面から写している。全体の4分の1くらいは表情のわかるバストショットだが、大部分は全身が映る距離から撮られており、その表情はほとんどうかがい知ることができない。最も印象的なのは、前半で彼女がトイレに行ったあとの、その距離で撮られたかなり長いカットである。彼女が語りつづけていると、次第に日が暮れて部屋の中が暗くなっていく。ここで語られているのは、反右派闘争で夫とともに根拠のない迫害を受け、それぞれ死を考えるほど苦しみながら、夫婦のあいだの信頼や愛情が増していくところ。前半のクライマックスである。もともとわからない表情が、暗さでさらに見えなくなるなかで、語られる内容の臨場感は逆に増していく。一段落したところで、監督が電気をつけるように促すのだが、監督はきっと、映画を撮るには暗すぎると思いながらも、語られている内容を考慮し、ここはこのままいこうと考えながら、電気をつけるタイミングを見計らっていたのだろう。

彼女の闘争はまだ終わっていない。血の味をかみしめつつ観るにはふさわしい映画であった。