バンガロールに来ちゃったの

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『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン(Le Voyage du Ballon Rouge)』(侯孝賢)[C2007-30]

天龍で餃子を食べてふたたびシネスイッチ銀座に戻り、侯孝賢の『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(公式/映画生活/goo映画)を観る。わたしにとってはこれが今日のメインだが、『赤い風船』へのオマージュである本作は、ほとんど『赤い風船』の添え物的な扱いで、19時からしか上映されないのにげきいかり。『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』というバカみたいな邦題にも憤慨。そもそも「ホウ・シャオシェンの」とかつけるのがはなはだダサいが、今回それには目をつむるとして、どうして『ホウ・シャオシェンの赤い風船』ではいけないのか?これで十分ラモリスとの(あるいは浅田美代子との)区別はつく。リメイク版の邦題をカタカナにしてオリジナルと区別するという手法はよくとられるが、これはリメイクではないし、原題はフランス語なのに英語をもってくるという点が最もマヌケだ。だいたい「レッド・バルーン」というフレーズには、「赤い風船」というフレーズがもつ叙情性が皆無である。それに日本語で「バルーン」というと、風船ではなくてもっと大きい気球のようなものを連想するのではないだろうか。

映画は、人形劇の声優をしている母親スザンヌと、その小学生の息子シモン、およびシモンのベビーシッター、ソンの日常を描いたもの。夕食後だから眠くなるかもという危惧は、冒頭、シモンの呼びかけによって高い木から下りてきた赤い風船が、メトロに乗ったシモンを追っていく長回しによって吹き飛んだ。でも、呼びかけられてから下りてくるまでのあのむだ時間はなんなんだ?

映画に描かれるスザンヌとシモンの生活は、冒頭とラストを除いて、ソンがこの家庭を訪れているときのものだ。ソンの視点で撮られているわけではないが、描かれているのはソンの見た母子である。家族構成や仕事など、母子の背景は物語が進むにつれて明らかになっていくが、傍観者であるソンの背景はほとんど明らかにされない。わかるのは、以前は北京で映画の勉強をしていて現在はパリで映画の勉強を続けており、いまは赤い風船の映画を撮っている、ということぐらいだ。この情報から、多くのサイトで彼女を中国人留学生と書いているが、わたしは北京へ留学した台湾人と理解した。違う?

ソンが登場しない冒頭とラストは、いずれもシモンが赤い風船を目にするシーンである。赤い風船は、映画中何度もこの家庭を訪れるけれど、誰もその存在に気づくことはなく、気づかないのか、それとも見えていないのかも定かではない。仕事やトラブルに追いまくられる母親と、離れて暮らす姉くらいしか遊び相手のいない孤独な少年をそっと見守る赤い風船。それは、少しずつこの家族にとってなくてはならない存在になっていくソン自身なのかもしれない。

スザンヌを演じるのはジュリエット・ビノシュ。それがこの映画のいちばんの問題点だ。前からあまり好きではなく(きらいじゃないけれど興味がない)、最近はぜんぜん見ていなかったが、いつのまにか二の腕の太いただのおばさんになっていた。スザンヌという役も、感情の起伏が激しく、あまり感情移入できないタイプ。でも、シモンに「おかあさん、なにひとりで急いでるの?」みたいなことを言われて、「やることがいっぱいあるんだよー」と言っていたところに妙に共感した。

一方、ソンを実名で演じたソン・ファンは、クールだけれど決して冷たくはないという感じが出ていてなかなかよかった。口数が少なく、最高頻度語が“d'accord”なのになんとなく納得したりする。シモン(シモン・イテアニュ)はかわいいけれど、agnès b.を着ていたのが生意気だ。ジュークボックスでアズナブールをかける小学生って渋すぎるよ。

侯孝賢が中華圏の外で映画を撮るのは『珈琲時光[C2003-18]に次いで二度めである。両者の共通点は、国境や文化圏を越えて移動していく人間や、伝わっていく芸術・文化を登場させていること。この映画では、スザンヌの家族が国境を越えて離散している一方、ソンや人形劇の先生は中国または台湾からフランスに来ている。そしてスザンヌは、フランス語に翻訳された中国の人形劇を上演しようとしている。スザンヌとソンの関係も、ただ子供の面倒を見てもらう、アルバイトをしてお金を得るというだけの関係ではなく、お互いの仕事や勉強に有益な助言を与えてくれる人として、プラスアルファのメリットを期待しているように思われる。国境を越えて影響を与え合う人間関係や、国境を越えて変容しながら伝わっていく芸術。それを直接主題として扱うのではなく、どこかに取り入れていくというのが侯孝賢のやりかたなのだと思う。

侯孝賢がパリをどう描くかにも興味があったが、絵はがきのような美しいパリではなく、交通渋滞が台北みたいだったりするのが新鮮だった。画として美しいショットはあえて撮らず、その反面、ガラスに映った風景や地面の影などの美しいショットがたくさんあった。

ちなみにこれはフランス映画だけれど、主要なスタッフはほとんど台湾の侯孝賢組だった。『珈琲時光』もそうだったけれど。脚本には侯孝賢が参加しているが、『珈琲時光』に続いて「ふつうの人の話、撮れるじゃん」と思った。今度は台湾を舞台に、ふつうの人(チンピラとかではなく、まっとうに働いて生活している現代人)の映画を撮ってほしいと思う(次回作はたしか武侠映画だからその次に)。