『国語審議会 迷走の60年』読了。
- 作者: 安田敏朗
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/11/16
- メディア: 新書
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私には、時代を後追いする、ぱりっとしない審議会の姿しかみえてこないのだ。(p. 12)
また、この序章の最後には、次のように書かれており、これにもまったく同感である。
ことばは伝統である、と唱えてもよい。「母語としての国語」とはその意味である。しかし、ことばは趣味の問題でもある。ことばが多用であることは、けっして「乱れ」ではない。ことばが通じないことは、けっして恐怖ではない。ことばを一元的に管理することはできない。それは国語審議会の漂流の歴史からもあきらかである。とりわけ技術的な側面から一元的な管理がめざされたのであるが、それがほとんど意味をなさなくなってきている現在、簡単な日本語から複雑でめんどくさそうな日本語、そして日本語以外のことばが入り込んだ日本語までをふくめたさまざまな日本語を同時に流通させることだって可能なはずである。ことばは、政策的に管理されてはならない、とはいえるだろう。さまざまな日本語が存在することを、混沌や混乱などとみなさないこと、これが本書の主張である。(p. 22)
このような主張を根底に置きながら、国語審議会の歩みが紹介されている。その要点をざっとまとめると、次のような感じになるだろうか。
- 前半は、現在派(国語があらゆる地域や階層で通用することをめざす方向)と歴史派(国語が国家の歴史や文化を表すものであることをめざす方向)が、主に表記をめぐって対立。現在派のほうが優勢であり、現代かなづかいや当用漢字表/常用漢字表が答申され、定着した。
- 表記の問題が一段落して両者の対立がみえにくくなるなかで、歴史派が優勢になって国語審議会は倫理化する。そこでは、「国語の愛護」だの「国語によって祖国愛を育む」だの、わけのわからない精神論へと重点が移っていく。
日本語の愛護ならわかるけれど、国語愛だとか祖国愛だとかは全然意味がわからない。2004年の文化審議会(国語審議会の後継)の答申、「これからの時代に求められる国語力について」には、国語(文学)を通して「人間として持つべき、勇気、誠実、礼節、愛、倫理観、正義、信義、郷土愛、祖国愛など」を身に付けることができるとあるらしい。フランス語やロシア語や中国語の文学を原語で読んでも身に付けることができるもので、別に国語とは関係ないと思うのだが。さらに、上述の勇気、誠実…は「情緒が形になって現れたもの」だそうだ。情緒が形になったものは簪でしょう。