実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『花蓮の夏(盛夏光年)』(陳正道)[C2006-17]

渋谷へ移動して、ドゥ・マゴでホット・チョコレートをすする。それからユーロスペースで『花蓮の夏』(公式/映画生活/goo映画)を観る。去年の東京国際映画祭で観ているので、映画館でも二度目だし、台湾版DVDでも何度か観ている。今日観に来たのは、ひとつはJ先生に見せるため(冬休みの課題映画なので…)、もうひとつはDVDでは小さくて読めないエンド・クレディットを見るため(こちらはほとんど効果なし)。

感想はもう何度も書いているので(id:xiaogang:20061027#p3、id:xiaogang:20070310#p4、id:xiaogang:20070706#p1)簡単に。友情とか愛情とか孤独とか成長とか進路とか、いろんな要因が絡み合っていくその「論理的に説明できなさ」がいいと思う。慧嘉(楊淇)をファム・ファタルに設定しなかったのがポイントだ。学校での先生の話なども、最初に観たときはあまり注意を払っていなかったが、全部物語につながっているのに感心した。本来クロース・アップは好きではないのだが、この映画では効果的に使われているように思う。美しい風景や魅力的なロケ地もあるが、この映画の魅力は圧倒的に人である。

今回発見したこととしては、九二一集集大地震が出てくるから最後は1999年だと思っていたが、正行(張睿家)の本棚にWord 2002の本があった。地震は架空のもので、ほぼ同時代の話と考えたほうがいいのだろうか。台湾の学校は9月に始まるから、あの時点でまだ9月というのは合わないようにも思うが、暑い地域の映画は季節が推測しづらいのが困りどころである。日本語字幕は、東京国際映画祭のものが使われると聞いたような気がするが、微妙に違うような気がしたけれどもどうだろうか。

邦題については、何度も書くようだがやはり『永遠の夏』のほうがよかったと思う。花蓮の夏の話じゃないし、結論を出さずに終わるところからみても、なにか青春を永遠にひきのばすような、そんな印象を残す映画だから。『花蓮の夏』に決まったときは、当然「ほありえんのなつ」だと思っていたので、『シーディンの夏』[C2001-19]みたいにカタカナじゃなくてよかったと思ったら「かれんのなつ」でがっかりした。

邦題が観客の視点や感想に及ぼす影響はけっこう大きくて、『長江哀歌』の感想などを読んでいるとなかなかおもしろい。去年のフィルメックスで『三峡好人』というタイトルで上映されたときは、誰もがこの河は長江だとかあまり意識していなかったと思う。それが『長江哀歌』になったら、多くの人が「長江のゆったりした流れが…」とかなんとか書いている。かくいう私もちょっと書いたのだが。原題を知らない人はもちろん、ただの邦題だと知っていてもそれにかこつけて何か書こうかと思ったりするものである。『花蓮の夏』に関してもそういうふうに書かれるのかと思うと、楽しみなような怖いような心境である。

この映画で張睿家(ブライアン・チャン)が注目されて、彼が出演している鄭文堂(チェン・ウェンタン)監督の新作、“夏天的尻把”が公開されることを切に願っている。

晩ごはんは今週もとんき。来週から東京フィルメックスで当分行けないから。