実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『海辺の一日(海難的一天)』(楊徳昌)[C1983-44]

今日の2本目、映画祭10本目は、アジアの風の『海辺の一日』。これも楊徳昌(エドワード・ヤン)追悼上映の一本で、ヴィデオでは観ているがスクリーンで観るのは初めて。映写の不具合で『遠い道のり』の上映が延びたので、マキアートを飲む暇もなく、劇場の移動程度の運動ですぐにまた3時間近い映画を観なければならないのは辛い。二本立てでもなんでもないのに、同じ日に観た映画に妙に共通点が見つかることが時々あるが、この『海辺の一日』は、『遠い道のり』と同じく波の音で始まった。

映画は、張艾嘉(シルヴィア・チャン)がかつて兄の恋人だった胡茵夢(テリー・フー)と十数年ぶりに再会し、これまでのことを語り合うというもの。ふたりがカフェで話しているところを間にはさみながら、回想シーンによって張艾嘉の半生が描かれる。最初は、回想シーン=張艾嘉の語りの内容となっているのだが、次第に回想中の登場人物の回想が入り込み、複雑な入れ子構造になっていく。

あらためて観ると、この映画が楊徳昌の長篇第一作であることに驚く。映画としての完成度といったこともさることながら、このような「オトナの映画」を30代で作ってしまったことにである。タルコフスキーについても、『アンドレイ・ルブリョフ』[C1967-02]を観たときに「やはりこの人は早く死ぬ人だったんだ」と思ったが、この『海辺の一日』も、今観るとそのような印象を受ける。張艾嘉のお兄さんが、若くして癌で亡くなったことが最後に知らされるが、これも今思うと象徴的な気がしないでもない。

撮影は杜可風(クリストファー・ドイル)。印象に残るのは、張艾嘉の実家の日本家屋の光と影の感じと、語り合う二人の女性の、すべてを乗り越えたあとといった感じの穏やかな顔である。

今回、初期の二作品を観て気づいたのは、外省人である楊徳昌が自伝的な要素を含む『牯嶺街少年殺人事件』[C1991-16]を撮る前に、本省人の物語を撮っていたということ。『海辺の一日』では、少なくとも張艾嘉は本省人だし、『タイペイ・ストーリー』[C1985-52]侯孝賢(ホウ・シャオシェン)や蔡琴(ツァイ・チン)も、父親が迪化街で商売をしているのだから本省人だろう。これは呉念眞(ウー・ニエンジェン)と一緒に仕事をしていたことと関連があるのだろうか。また、『海辺の一日』の張艾嘉のおとうさんのキャラクターは、『冬冬の夏休み』[C1984-35]のおじいさんと共通するところがあり、朱天文のおじいさんをモデルにしたところがあるのかもしれないと思った。

周囲の反対で結婚できなかった恋人たちとか、友人とやっている会社とか安易なお金儲けとかいった『海辺の一日』のなかのモチーフは、『ヤンヤン 夏の想い出』[C2000-03]と重なるところが多分にある。ただ、かなり図式的に感じられた『ヤンヤン 夏の想い出』に比べて、『海辺の一日』ではずっと生々しく描かれていると感じる。

上映後は呉念眞のティーチ・インがあったが、夕食時間を確保するため、残念ながらパスしてしまった。