実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『グブラ(Gubra)』(Yasmin Ahmad)[C2005-49]

昨日に続いてエクセルシオール・カフェへ行き、昨日に続いてアテネ・フランセ文化センターへ行く。もちろん今日も「ヤスミン・アハマドとマレーシア映画新潮」(LINK)で、タイトルに挙げられているヤスミン・アハマド(Yasmin Ahmad)監督の映画を二本観る予定。まず一本目は、去年観そこねた『グブラ』。『ラブン』[C2003-31]から『ムクシン』[C2006-18]に至るヤスミン・アハマドの四作品は、いずれもオーキッドとその家族の物語だが、オーキッドの年齢も前後するし、必ずしも全く同じ人物の話と解釈しなければならないわけではないと思う。しかしこの『グブラ』だけは明確に『細い目』[C2004-32]の続篇として作られており、演じている俳優も同じ。『細い目』は一昨年観たが、かなり忘れているところもあるので、今日『グブラ』の前に上映されたのを観ておけばよかったと後悔する(でもアテネで三本観るのはねえ…)。

『グブラ』では、オーキッド(シャリファ・アマニ)はすでに結婚しており、おとうさんの入院をきっかけに、『細い目』で死んだジェイソン(a.k.a.阿龍)の兄と出会うが、同時に夫の浮気に直面するという話である。オーキッドのおとうさんは『小早川家の秋[C1961-04](asin:B0000ZP474)の中村雁治郎だったが、浮気していたのはおとうさんではなくてダンナだった、という話でもある。

オーキッドは、ジェイソンの死後、おそらく幸福な人生を送ってきたのだろう。ジェイソンの死の詳細を知ったり、家族と会ったりしないまま、彼のことは彼女のなかで自然に美しい思い出に変わっている。ところが偶然にも彼の兄、アランと出会ったとき、同時に夫の浮気という問題に直面し、ジェイソンとの思い出があらためて彼女の前によみがえる。それがものすごくかけがえのないものとして彼女を揺さぶるのだが、しかしそれはもう二度と戻ることのできない世界である。その切なさややりきれなさが生々しく、心を打たれる。

この映画では、オーキッドとその家族の物語と平行して、もっと貧しい人々、若い聖職者の家族と娼婦たちの物語も描かれている。他作品と同様、ユーモアやくだらないギャグがちりばめられているものの、四作品の中で、最も重く辛辣であり、社会派度の高い映画である。とりあえずハッピーエンドになるのは、それぞれ夫が無事に退院するオーキッドの両親とジェイソンの両親だけであり、今はハッピーでも彼らの人生はそう長くは残されていない。ほかの登場人物は、みないろいろな問題を抱えており、その問題は映画が終わっても解決せず、彼らはその後もそれらの問題を背負って生きていかなければならない。彼らが抱える問題の原因は、個人的なものだけではなく、政治的、社会的、宗教的なものでもあるが、それが何であれ、その問題を背負って苦しまなければならないのは個人である。聖職者の夫婦は、娼婦たちを差別せず、いろいろと手助けをするが、彼女たちを苦境から救い出し、娼婦をやめさせることもできないし、犯罪を止めることもできない。ジェイソンの兄、アランがブミプトラ政策下の華人の立場について、「華人がこの国に留まることは、見返りのない人を愛するようなものだ」(うろおぼえ)と言う、「なかなかうまいことを言いますね」というシーンもある。マレー人のためのイスラム教の国であることを第一義とするマレーシアが抱える矛盾と、そのツケを個人が払わされる理不尽さを、かなりはっきりと描いた映画である。

登場人物は、アランや聖職者の夫婦にも、オーキッドやその家族と同様、監督の分身的な性格が付与されているように思う。オーキッドの両親のラブラブぶりはあいかわらずだが、それはオーキッド夫婦ではなく、聖職者の夫婦に受け継がれている。そのことは、最初は悪くなさそうな人に思われたオーキッドの夫の正体が明らかになっていくにしたがって、なるほどと感じられる。

映画の終わりが、重く出口のないものである一方で、絶望よりも希望が感じられるのは、登場人物たちの嫌味でない前向きさと、彼らに託された、多様性を尊重する監督の思いによるものだろう。

舞台は『細い目』に続いてイポー。ロケ地もイポーのようだ。劇中の音楽が多少盛り上げ過ぎなのが気になったが、エンディングの歌は張子夫(ピート・テオ)だった。