実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ロング・グッドバイ』(Raymond Chandler)[B1215]

村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』読了。同時に清水俊二訳の『長いお別れ』[B211]も読了(こちらは四度目くらいか)。

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ

村上春樹訳であろうと清水俊二訳であろうと、レイモンド・チャンドラーのこの小説がものすごくすばらしくて、ものすごくおもしろくて、十本の指に入る小説であることには変わりがない。この小説自体は何度も読んでいるので、そのすばらしさについては語らない。ここでは、翻訳についてと村上春樹への影響について述べる。

まず翻訳について。村上春樹が“The Long Goodbye”を訳すと聞いたとき、私が最も期待したのは一人称だった。私にとって、フィリップ・マーロウの一人称は絶対に「僕」なのだ(もっとも、ハンフリー・ボガートなら「私」で、エリオット・グールドなら「俺」かもしれないが)。「僕」であることを期待したというより、村上春樹だからもう絶対に「僕」になると思っていた。ところが結果は「私」。清水訳では会話文は「僕」だったのに、村上訳ではぜーんぶ「私」。最悪だ。ネットで見ると、私以外の人は逆に「僕」になるのを危惧していて、「私」だったので安心したらしい。前にも書いたけれど、プライヴェートな会話でも「私」という男は相当気持ち悪いし、そもそもあまりいないと思う。「僕」は子供っぽいと思っている人も多いようだが、それはただの思い込みである。ついでに言うと、年配の人のほうが多少あらたまった場でも「僕」とか「俺」とか言っており、ふだんでも「私」と言うのはどちらかというと若年層に多い気がする。これはたぶん、就職活動などでそういうことに気を配らされることの後遺症ではないかと私はふんでいる。

村上春樹訳と清水俊二訳とを比較すると、先日は「清水俊二訳のほうがずっとよい」と書いた(id:xiaogang:20070310#p2)が、どちらがよいとも断言できないというのが最後まで読んだ結論である。清水訳のほうがいいと思うところもあれば、村上訳のほうがいいと思うところもあった。両方を交互に読んでいたが、厳密に交互に読んだわけではなく、昨日は『ロング・グッドバイ』、今日は『長いお別れ』という感じだったので、だいたいにおいて先に読んだもののほうがいいように感じられた。以下に気づいた点を挙げてみるが、原文はほとんど参照していないので、あくまでも訳文から受けた印象である。

  • 清水訳には省略があったということであり、フレーズ単位以上の明らかな省略は当然ないのが望ましいので、村上訳のほうがいい。
  • なくても同じ意味だったり、日本語ではないほうが自然だったりする語もあるので、村上訳は原文に忠実なぶん、冗長に感じられるところも多い。
  • 村上春樹は、いくぶん意地になって清水俊二とは違う訳にしようとしているのではないかと感じた。
  • 清水訳では意味がよくわからないところが村上訳ではすっきりわかる、というのが何箇所かあった。誤訳もあっただろうし、性的な表現などは生々しくないようにするためか、清水訳では抽象的に表現されすぎていたように思われる。
  • 意味が違うわけではないが、文のニュアンスが異なるところがかなりあった。これは清水訳のほうがしっくり感じるところもあれば、村上訳のほうがしっくり感じるところもあった。
  • いわゆる決めの台詞みたいなところは清水訳のほうがよく練られている(村上春樹はそういうところをあえて重視していないように思える)。一方、本筋から逸れて長々と語られるようなところは、村上訳のほうが生き生きしている。
  • 必ずしもすべて、村上訳のほうが原文に忠実であるわけではないと思われる。清水訳のなかには、「こういう言い方をしてこういう意味を表すんだな」というのが一読してわかる直訳っぽい表現がいくつかあったが、そういうところは村上訳では逆に日本語的な言い回しになっていて目立たなかった。
  • グレート・ギャツビー』(asin:4120037827)のときは現代風の味わいになったのが顕著に感じられたが、今回はそうでもない。現在ではカタカナ語になっている語やカタカナ表記など、単語レベルではいくつかの明らかな違いがみられるが、会話の言葉づかいなどはあまり違う印象は受けない。もともと村上春樹は、会話の言葉づかいにステレオタイプな色づけがあり、あまりリアルではないのだが。
  • どちらの翻訳も読みやすい文章だが、どちらもちょっと硬い表現があったのが気になった。たとえば、清水訳の「であろう」や、村上訳の「のだが」。村上春樹はふだん「のだが」なんて使わないのではないかという気がしてちょっとひっかかった。

原文、清水訳、村上訳の文単位での対照リストを作りたいという激しい衝動にかられるが、そんなことを始めたらドツボにはまるのは明らかなので、少なくとも定年までは我慢することにする。それまでに早川書房がそういうものを発売してくれたら喜び勇んで買いますよ。

次に村上春樹への影響について。私が初めて手にした村上春樹の本は、たしかフィッツジェラルドの短編集(村上春樹訳)『マイ・ロスト・シティー』(asin:4122011345)で、その中でレイモンド・チャンドラーに言及されていたのが買った理由だったと思う。だから村上春樹とチャンドラーのつながりはそれなりに意識していた。『羊をめぐる冒険』(asin:4062749122, asin:4062749130)は村上春樹版『長いお別れ』だと思ったし、比喩表現などにもチャンドラーの影響を感じていた。今回『ロング・グッドバイ』を読んでもっと根本的な影響を感じたが、それは主人公のタイプと物語が想定する世界の構造についてである。

自分なりのルールに従って行動する主人公というのが、村上春樹の小説の大きな魅力のひとつである。そしてそれはそのままフィリップ・マーロウにも当てはまる。フィリップ・マーロウの場合、生き方みたいな大きなところでの行動原理がより強調されているが、それは日常生活にもわたっているし、村上春樹の主人公の場合は、特に細かいこだわりと、それが組み込まれ、システム化された日常生活の描写が魅力だが、やはりこれはチャンドラーの影響が大きいとみるべきだろう。

私はもともとミステリー好きで、大まかにいうとモーリス・ルブランエラリー・クイーンダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーというコースをたどった。このようにしてチャンドラーにたどり着いたとき、私が感じた大きな魅力のひとつは、ある事件が解決しても決して変わることのない世界の構造と、それを前にした主人公の敗北感のリアリティだった。つまり、資本家とギャングと警察とマスコミがすべてつながっており、マーロウはそれに阻まれながらも真相を解明するが、それでも世界は何ひとつ変わることがなく、マーロウも読者もそれに対して敗北するほかはない。村上春樹の、特に初期の小説は、こういった世界の構造を、日本を舞台にしたミステリーではない文学に持ち込もうとしたものに違いない。

ところで、多くの人がすでに指摘しているように、このカタカナ表記のタイトルは(最近の村上春樹の他の翻訳小説と同様)よくないと思う。他の翻訳と区別するためらしいが、翻訳が誰であろうとその小説に対してひとつの固定的な邦題があったほうがいいし、それは原題カタカナ表記ではなく、日本語にしたもののほうがいい。私は“The Sun Also Rises”の日本語版を三種類もっているが、タイトルはいずれも『日はまた昇る』である。

さて、次は『羊をめぐる冒険』を再読することにしよう。