実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『絶対の愛』(金基徳)[C2006-28]

渋谷へ移動して、ユーロスペースで金基徳(キム・ギドク)監督の新作、『絶対の愛』(公式/映画生活/goo映画)を観る。金基徳の映画はいつも特殊な設定で、変わった人物が登場する。どうもアイディア勝負というかトリッキーというかキワモノっぽいというか、そういう印象はぬぐえないのだけれど、今回は整形ネタだ。

引き込んで見せる力はすごくあって、なかなかおもしろかった。しかし、登場人物に共感したわけではなく、かなり客観的に見ていた。男がかわいい女の子をちょっと見ただけで、人前でキレてヒステリーを起こす女なんて最悪だし(顔を変える前に性格を変えろと言いたい)、いくら恋愛は理屈じゃないといっても、そんな女が忘れられない男というのも理解に苦しむ。登場人物の価値観が自分と違っていたり共感できなかったりすることはよくあるが、そこで観客に突っ込ませたらだめだと思う。たとえ賛同や共感ができなくても、それとは別の次元である世界観を観客に提示して、あるがままに受け入れさせることができるかどうかが、映画の評価のひとつのポイントだと思う。金基徳の映画はどれも特殊な設定だが、程度の差こそあれ、これまではその世界をすんなり受け入れることができたが、『絶対の愛』はだめだった。

しかし、この映画は顔とアイデンティティの関係を描いていて、その点では興味深い。アイデンティティという言葉は、国やら民族やら家やらへの帰属を論じる文脈で使われることが多いが、私はその手のアイデンティティには全く興味がない(そんなもんどうだっていいと思っているから)。しかし個人の自己同一性という意味でのアイデンティティ、どこで同じインスタンスであると判断するかという問題にはかなり興味がある。今までは本人の立場からしか考えていなかったので、自分が同じ人間だと意識していれば同じだと思っていたが、この映画では他人がアイデンティファイするという視点で描かれている点が新鮮だ。他人から見たら意識なんて関係ないから、アイデンティティは限りなくゆらいでしまうかもしれない。でもセヒ(パク・チヨン)がスェヒ(成賢娥/ソン・ヒョナ)になっても性格は全然変わっておらず、あいかわらずカフェでヒステリーを起こしていたのに、それでもジウ(河正佑/ハ・ジョンウ)は同じ人だと感じることができなかったのだろうか。

これが香港映画だったらコメディになりそうだ。恋人が突然姿を消してしまった男の前に別の女性が現れる。彼はその女性が気になり始めるが、姿を消した彼女のことも忘れられない。そこであれこれ悩んでいるところがおもしろおかしく進行して、最後に新しい女性は整形した前の彼女だったということが判明する。『絶対の愛』ではここからが本題だが、香港映画ではこれでめでたしめでたし、あっさりハッピーエンドだ。すぐにもそんな映画が作られそうな気がしませんか。

どうでもいいけれど、整形してスェヒと名乗るまで、ずっと彼女の名前はセヒではなくヤヒだと思っていて、ずっと「ヘンな名前」と思っていた。

久しぶりにとんきでひれかつを食べて帰る。