『荒人手記』読了。
- 作者: 朱天文,池上貞子
- 出版社/メーカー: 国書刊行会
- 発売日: 2006/12/01
- メディア: 単行本
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「なぜゲイの男?」と思ってしまうが、主人公の年齢や家庭環境、ものの見方、考え方には、かなり作者自身が投影されている。集団で社会運動などをすることに対する距離感や、穏やかに暮らしたいという望みなど、けっこう共感できるところもある。
興味深かったのは、主人公の大陸に対する思いと、蒋介石の死を描いた部分。大陸に対する思いは、次のように表されている。
そう、おれの世界地図のなかで、おれはあの広大な大地だけは避けている。
今、それはそこにある。おれが脱ぎ捨てた青春の抜け殻、愛情の残骸、それはそこに乱雑に山積みされている。おれは冷静な気持ちでその傍を通りすぎ、世界のどんな遠くの国よりも見知らぬもののように感じている。おれはすこしもそこへ行きたいとは思わない。
……
おれはついに悟った。かつて、おれが踏んでみたいと思った土地、おれが夢見ていた存在は、ほんとうははじめから実際には存在しなかったのだ。その求めて得られぬ地は、はじめから文字の中にしか生きていなかったのである。(pp. 237-238)
外省人にとって蒋介石(文中には「偉人」としか書かれていない)の死の思い出は、かつての「偉人」に対する盲信や眷村での暮らし、その他いろいろな失われたものへのノスタルジアとつながっていることをうかがわせる。大陸への思いも蒋介石の死の思い出も、外省人の父と本省人の母を持ち、眷村で育った作者自身の背景を連想させるものだ。
また、主人公は若い世代に対してかなり辛辣だが、この小説が書かれた1994年は、『憂鬱な楽園』を撮るために侯孝賢が積極的に若者たちに接近していたころではないだろうか。その経験からこのような辛辣な評価が出てきたのかもしれないと思うと興味深い。
主人公の回想の中には、思想家、作家、映画監督、アイドル、ブランドなど、様々な固有名詞が登場する。そもそも、国書刊行会のサイト(LINK)の紹介文に、「レヴィ・ストロース、毛沢東、蒋介石、フェデリコ・フェリーニ、小津安二郎、成瀬巳喜男……、さまざまなジャンルのテキストを引用しつつ繰り広げられる、家族や性に関する省察。」とあったのが、この本を読もうと思った最大の理由である。しかし、「テキストを引用しつつ」というのは正しくない。出どころのはっきりしたテキストがコラージュされていればそれはそれでおもしろいが、どこかで見たり読んだりしたことを、主人公が伝聞的に語っているだけだ。作者自身の解釈も入っていると思うが、主人公が考えたことなのか、どこかで読んだことなのか判然としないところも多い。小津や成瀬については、映画人でもある作者のオリジナルな見解を聞きたかったが、よく知られているようなことしか書いておらず、がっかりした。それらから導き出される「省察」も、あまり印象に残っていない(正直にいって、「ひけらかしている」という印象は否めない)。
小津といえば、主人公は鎌倉へも行き、小津ゆかりの場所を訪ねている。それは作者の経験に基づいていると思われるが、おそらく自力で行ったのではなく、「脚本家・朱天文」として誰かが案内してくれたのだろう。そう思うと興醒めだ(いぢわるですか?)。
出てくる固有名詞は日本のものが多く、台湾のものは少ない。地名では、台北・西門町の紅樓劇場が出てくるのが嬉しかった。次のような文章もあるが、澳底から亀山島は見えないと思う(見えないと確信していたが、こうはっきり書かれると自信がなくなる)。
今でも覚えているが、ペイペイが自分のホンダ・シビックを運転して、三人で澳底へクロメジナを食べに行ったことがある。食事が終わってから港をぶらつき、亀山島をながめた。……(p. 207)
翻訳者に文句を言いたいことがふたつ。ひとつめは一人称。主人公の一人称は「おれ」。ここは「僕」(あるいは「ぼく」)にしてほしかった。言うまでもなく、日本語では一人称の選択が印象を大きく左右する。主人公は大学の先生で物書き。インテリだから「おれ」ではない、というのもステレオタイプかもしれないが、私は圧倒的「僕」派なので、よほどおかしくない限り「僕」を希望する。ちなみに一番嫌いなのは「私」(公的な場でないところでも「私」と言う男性とはおつき合いしたくない)。
ふたつめは固有名詞の翻訳。193〜194ページにお店の名前を列挙している箇所があるが、それが日本語に訳されている。固有名詞だから訳すべきではなく、ものによっては訳を併記するなどしてもオリジナルは残すべきだ。だって、訳してしまったら知っているお店が出てきてもわからないでしょ。