実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ミッション・スクール - あこがれの園』(佐藤八寿子)[B1200]

『ミッション・スクール - あこがれの園』読了。

ミッション・スクール (中公新書)

ミッション・スクール (中公新書)

先日『三四郎』を観たとき(id:xiaogang:20070128#p1)に、「(小説の)美禰子ってファム・ファタルだよなあ」と思って検索していたときに引っかかった本。でもちょっと期待はずれ。

ミッション・スクールに対するイメージについて、でっちあげの不敬事件の新聞記事や、ミッション・スクールの女学生が出てくる小説によって論じているが、全体の中でのそれらの位置づけ(たとえば、小説に出てくる女学生の中でミッション・スクールはどのくらいの割合なのか)や、ミッション・スクール以外との比較(たとえば、公立女学校の生徒が出てくる小説の比較)がほとんどないので、単に著者の主張に合う都合のよい事例を持ち出しているだけのように見えてしまう。

そのことと無関係ではないと思うけれど、そもそも、西洋文化に対するイメージとミッション・スクールに対するイメージ、女学校一般に対するイメージとミッション女学校に対するイメージ、有名私立大学に対するイメージとミッション系大学に対するイメージなどの境界が曖昧で、それらをきちんと区別したうえで論じていないところが散見される。だから、著者は、ファム・ファタルに対する憧れとコンプレックスといった相反する感情と、それと表裏一体をなす良妻賢母称揚、といったことを言いたいようだけれど、それは、欧米留学した人が時々日本主義者になってしまったりするのと要するに同じではないのか。著者が主張するほど、新規な視点だとは思えない。

このように違和感を感じながら読み進んでいたところ、極めつけに不審な例に行き当たった。まず、昭和のミッション・スクールのイメージの例として、石坂洋次郎の『若い人』が取り上げられている。石坂洋次郎の小説はひとつも読んでいない(読みたくもない)し、映画化された『若い人』(たとえばasin:B0009OATQ2)も観ていないが、ミッション・スクールが舞台ではないほかの映画化作品を観るかぎり、「明るく開放的で自由」なのは石坂洋次郎ものの一般的な雰囲気ではないのか。そして特に不審なのはここからで、比較対象として木下恵介の『女の園』(asin:B000FHVVDS)が挙げられている。京都女子大がモデルのこの映画は暗くて重いけれど、そもそも仏教系の学校を舞台にした映画がほとんどないのに(少なくとも私は思い出せない)、『女の園』をその代表として出すのはあまりにも恣意的だと思う。

この本でおもしろかったのは、戦前の立身出世イデオロギーを表す言葉として「突貫」を挙げていることである。「突貫」という語はかつてはよく使われていて、肯定的な意味が強かったらしい。ここで

……一九二九(昭和四)年には小津安二郎のコメディ映画『突貫小僧』が登場し好評を博している。(p. 156)

とちゃんと言及しているところまではよかったが、その『突貫小僧』に主演し、芸名が突貫小僧になってしまった青木富夫への言及がないのは寂しい。