バンガロールに来ちゃったの

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『流れる』(幸田文)[B1182]

『流れる』読了。

流れる (新潮文庫)

流れる (新潮文庫)

幸田文の文章は、中学だか高校だかの国語教科書に載っていて、私は嫌いだと思った。理由は忘れた。それ以来読もうと思ったことはない。成瀬巳喜男の『流れる』[C1956-14](asin:B0000XB5OM)は、この小説の映画化である。言うまでもなくとてもすばらしい映画だ。しかしそれは成瀬あってのものである。成瀬映画の場合、たいてい映画のよさや味わいと原作のよさや味わいとはほとんど関係がない。だから今まで『流れる』を読んでみようと思ったことはなかったが、文庫で読めるということに気づき、ふと読んでみる気になった。

先入観はなるべくおいて読んだつもりだが、やはり幸田文の文章は好きではない。文体も好きではないし、言葉の選び方や表記も気に障るものが多い。内容的には、女中の梨花が芸者屋の人たちを観察して思ったことや自分自身のことを語ったものである。それがとにかくしつこくてくどい。何を語るにも「私は」「私は」という感じの俺様小説なのが嫌だ。女性の女性に対する評価は一般に厳しいが(おそらく私が幸田文の文章をみる目にもそれは該当する)、「そこまで言うか」という域に達している。一方で梨花は芸者たちやくろうとの世界に惹かれているのだが、それを描くときの、ちょっと垣間見ただけの世界に対してわかったように語るお嬢様気質みたいなものも見苦しい。

映画版と比較すると、映画を観終わったときの感じ(「観後感」といった言葉はないものか)と小説の読後感はかなり異なる。季節の設定が異なっていて、小説は一貫して寒くて汚い世界(汚さの描写は閉口するほどにある)なのも一因である。また、映画では梨花を通して見た芸者たちの世界が生き生きと描かれているのに対して、小説では梨花の思ったことが前面に出ているためでもある。

登場人物は、勝代と梨花が映画と異なる。勝代は、小説では器量も性格も非常に悪いという設定である。映画では、勝気で無愛想なのは同じだが、器量は高峰秀子だし、性格も悪いわけではない。田中絹代が演じる梨花は、おなかの中で何を考えているのかは明示されないが、やはり小説と同じように考えているとは思えず、印象が異なる。