実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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舛田利雄監督トーク(フィルムセンター)

『闘牛に賭ける男』上映後の舛田利雄監督のトークは、VOICE BARを持って行かなかったため採録はできないが、概要をメモしておく。

  • 映画として撮ったものをヴィデオで見るのは好きではない。映画はやはり大きなスクリーンで観るべきだと思うので、自分の作品もその後ほとんど観ていない。この作品も久しぶりなので、今日は他人の映画のような感じで観た。
  • この映画は北原三枝の最後の映画なので、石原裕次郎よりもむしろ北原三枝が主役である。
  • 海外ロケ映画は、主な舞台は日本で、そこに回想で外国のシーンが入るようなものが多い。そこで逆に、現在がスペインで、回想で日本のシーンを入れるようにしようと思った。しかしかなり複雑になってしまい、今日みなさんがわかってくれたか心配だ。当時、日活の社長だった堀久作が試写を観たら、途中でわからなくなってしまい、血圧もかなり上がってしまったので、以後、日活では回想シーンを入れてはいけないことになった。そういう意味で、ほかの監督にもかなり迷惑をかけてしまった映画である。
  • 今思うと回想シーンはかなりめちゃくちゃだが、当時は私も若くて髪も黒くふさふさだったし、裕次郎も若かった。若さで作った映画である。
  • この映画の企画は、「石原裕次郎で正月映画を撮れ」ということで始まったもので、最初からスペインロケの企画だったわけではない。何もないところから、祐次郎を呼び屋にしようと考え、実際にはあり得ない闘牛の呼び屋にした。
  • 予算がなかったので、事前にスペインへ行くことはできず、本から得た知識と想像だけで脚本を書いた。
  • ただし、当時パリに留学していた助監督や、美術の木村威夫などに、撮影の1ヶ月ほど前から現地へ行ってもらった。彼らがロケハンや俳優の手配をしてくれたので、スムーズに撮影できた。
  • 闘牛は相撲と同じで、一年中いつでも興行しているわけではない。撮影時にやっているかどうかが一番の懸念事項だったが、なんとかやっているところがあり、登場人物を入れて撮影することができた。
  • スペインへ行ったスタッフは、主演の石原裕次郎北原三枝二谷英明を入れて全部で10人ぐらい。あとは現地調達のスタッフを使ったが、その人たちがたいへんよく働いてくれた。当時スペインでは、アメリカ映画のロケも頻繁に行われていたが、仕事がゆっくりのアメリカ人に比べて、日本人の仕事は速くて効率がいいと驚かれた。
  • スペイン人俳優とのコミュニケーションにも問題はなかった。その理由のひとつとして、通訳が優秀だったことが挙げられる。通訳は、満洲国の大使としてスペインに来ていた人で、満洲国がなくなったために国籍を持たずにスペインに住んでいた。
  • 当時はフランコ政権下だったが、政治的な圧力は全くなかった。それ以外にも、撮り方や撮るものについて口出しをされることは一切なかった。
  • 石原裕次郎北原三枝は結婚直前だったので、二間続きの部屋を用意したり、いろいろと気をきかせたが、裕次郎北原三枝を放っておいて酒ばかり飲んでいた。
  • まだスペイン内戦の傷痕が生々しかった時期であり、壁に銃弾の跡が残ったところなどを見に行ったのが印象に残っている。それを見て、本当に大変な内戦だったんだなぁと思った。
  • 映画に出てくるジプシーは、本物のジプシーである。
  • 裕次郎が亡くなったときにキネマ旬報が数えてくれたところによると、彼の映画を25本撮っている。自分としては特にどれがいいとかいうことはなく、自分が撮ったものはどれも同じようにいい。みなさんがいいと言ってくださるのは、『赤いハンカチ』や『赤い波止場』。
  • アクション映画でもないこんな映画をかけて、いったいお客さんが来るのかと心配だったが、こんなにたくさん観に来てくださってありがとうございます。
  • こんなのではなく、アクション映画を観てください。