侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『悲情城市』は、私が二・二八事件について初めて知った映画である。その後、二・二八事件に関する知識は本などで徐々に増えてきた。『悲情城市』もその後何度か観たが、二・二八事件の描かれ方についてはあまり注意を払っていなかった。そこで、「二・二八事件はどのように描かれているか」を確認することを目的に、久しぶりに全篇を通してDVDで観た。
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2003/04/25
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- 寛榮が山中の基地で捕殺されるシーンは、1953年の「鹿窟基地」事件に基づいており、1949年ではない。
- 文清のいる監獄での銃殺のシーンは、1950年代の白色テロのときのものである。二・二八事件直後に失踪した人々は、手順を踏んだうえで銃殺刑に処せられたわけではない。
ここでは、二・二八事件の前後に限定し、どのように描かれているかを検証してみたい。『悲情城市』は二・二八事件を主題として描いた映画ではないし、物語そのものはフィクションである。歴史的事実と異なるからといって、作品の芸術的価値が下がるわけではないというのが私の基本的な立場である。この映画は今もって「二・二八事件を描いた映画」として認識されているし、実際の歴史的事件を背景にしている以上、正確に描かれているほうが望ましい。しかし、製作当時の状況を考えれば、現在のように資料が豊富ではなかっただろうし、検閲をパスするための方策という面もあったと思う。したがって、ここで否定的な書き方をしたとしても、映画を批判したり製作者を責めたりする意図はないことをあらかじめ断っておく。
今回観直してみる前に思ったのは、二・二八事件の経過に伴う台湾の空気の変化のようなものが、『悲情城市』では描けていないのではないかということである。二・二八事件前後の経過と本省人を取り巻く空気の変化を、私は次のように認識している。
- 祖国に復帰した喜びと、民主主義政治の実現や台湾の自治獲得への大きな期待
- 国民党の政府や軍人の腐敗や無能への失望、それに伴う社会の混乱に対する不満や怒りの増大、その爆発としての二・二八事件の勃発
- 処理委員会を通じて、民主化などの要求が実現されることへの期待
- 大陸からの増援部隊による大規模な弾圧への怒りと、国民政府に対する深い絶望
『悲情城市』では、光復直後の喜びや期待感は十分に描かれている。その後は、会話、筆談、放送などの内容を丁寧に追っていけば、上述のような事実関係はすべて描かれているが、やはり空気の変化のようなものは十分に描かれていないように思われる。
『悲情城市』を、文清、寛榮といった知識人を中心にみていくと、まず、事件前の失望や不満が直接描かれているのは、文清の家での知識人たちの会話のシーンだ。しかし、ここでの会話はかなり教科書的で説明的である。そのためか、深刻さや切迫感がいまひとつ感じられない。
二・二八事件の勃発については、陳儀の放送と寛美の日記で語られるが、政府側の発砲などについて触れられておらず、不十分である。映像では、鉱山病院のまわりでも暴動が起こっているシーンや、このあとの文清の回想シーンなど、本省人の暴動のみが描かれている。
事件直後のシーンでは、陳儀の放送や文清の筆談で処理委員会に触れている。しかし、文清の話は、怪我人が大勢出ていることや、外省人と間違われて襲われそうになったことなど、不安のみが語られており、改革への期待といったものは全く描かれていない。
その後の鎮圧については、寛榮の話の中で、林先生が行方不明であること、処理委員会は全員逮捕されたこと、陳儀が兵を出したことが語られる。その後のシーンで寛榮、文清も追われる身になったことがわかるのだが、その前に期待や希望が描かれていないため、弾圧のショックや絶望の大きさが伝わりにくい。
要するに、『悲情城市』での台湾の空気は、よくなったり悪くなったりといった複雑な変化はみせない。二・二八事件が一段落するまで、とにかくどんどん悪くなっていく、という描き方である。
一方、この映画を文雄、文良を中心にみていくと、こちらのほうでは戦後の台湾の状況がもっと具体的に描かれている。「悪い外省人」として上海ヤクザが登場し、米や砂糖の横流しや密輸、役人と結託しての不当逮捕、精神に異常をきたすほどの拷問、身代金による釈放といったものが描かれる。
つまり『悲情城市』では、政治家や役人や軍人がやっていた悪事や、一般人や知識人が受けた被害や弾圧が、すべてヤクザの世界に凝縮されて描かれているといえる。ただしそれも、上海ヤクザが地元のヤクザと組んでいるため、直接台湾ヤクザ対上海ヤクザという構図にはならず、表面的には地元ヤクザ同士の抗争であったりする複雑な関係になっている。このように、外省人の悪事がヤクザ社会に絡む部分でのみ描かれているのも、外省人対本省人の対決の構図が避けられているのも、おそらくは検閲を通すための策であると思われる。