実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『太陽(The Sun)』(Aleksandr Sokurov)[C2005-38]

銀座シネパトスへ、ソクーロフの『太陽』(公式映画生活)を観に行く。立ち見との噂なので9:50の回に行くが、ほぼ満席。前売り券が売り切れだったので、1800円も払って観ることになった。高くつく映画である。

ソクーロフの映画は、15年以上前に『孤独な声』を観ただけだ。たしか「第二のタルコフスキー」という触れ込みだったが、あまりピンとこなかったので、それ以来ソクーロフの映画は観ていない。「ソクーロフの映画」という視点を抜きにしてこの映画について語ることはあまり適切ではないように思うのだが、残念ながら観ていないのでしかたがない。

映画は、敗戦前後の天皇ヒロヒトを描いたもの。悲劇と紙一重の喜劇、あるいは悲劇と紙一重の喜劇。

この映画のどこが資料や調査に基づいていて、どこが想像なのか、私にはよくわからない。少なくとも、できるだけ事実に基づいて描こうとした映画ではない。知り得ない部分に限らず、全体に大胆な想像が含まれている。戦災に遭った東京の街は、第三次世界大戦後の世界を思わせるような異様さだ。そんな中に、モノマネっぽく天皇を再現するイッセー尾形の演技や、延々と映し出される侍従の仕事ぶりなどが、リアルっぽさを撒き散らしている。結果として、ドキュドラマのようなリアリティでもなく、まったくの絵空事のようでもなく、あり得たかもしれない時間と空間を描くことに成功しているように思われる。

「現人神から人間へ」というのが、この映画で天皇が描かれる視点。神や宗教に興味がなく、非科学的なものを信じるということが理解できない私は、現人神などというのは要するに方便で、本人もまわりも国民もそんなものを信じていたはずがない、と思っていたので、このような視点は見落としがちだった。外国からみれば、「現人神」などという時代錯誤なものが好奇心をそそるのだと思うが、天皇制とか戦争責任とかを考えるうえでも、この「神」という視点は実はかなり重要なのかもしれない。最近、戦争というのは欲得づくで起こるのではなく、善意とか忠誠心とか「心の問題」とかいったものが実は恐ろしいのだと思うようになってきたので、この点は少し注目してみる必要がある。

ソクーロフが描く天皇ヒロヒトは、広範な知識を持ち、常に思索しつつ、子供のような無邪気さをも併せもった人物である。ソクーロフの視線はかなり好意的だが、少し距離を置き、理解を超えた部分もそのまま見せているように思える。育ちも置かれた位置も経験も、すべてが特殊である天皇を、そんなに簡単に「ひとりの人間」として理解できるはずはない。だけど日本の観客の多くが、そこから読みとれるものを孤独とか苦悩とかいったものに一元的に回収してしまい、簡単にわかった気になっているらしいのが少し心配だ。しかし、常に思索したり、ヘイケガニについて語り続けたりするこの天皇像は、かなり西洋人的である。

ところで、シネパトスという劇場は映画を観る環境としてはあまりよくない。観るか観ないかのボーダーラインにある映画ならば、シネパトスと聞いたら観るのをやめる。しかし、この地下の劇場の閉塞感は、天皇が過ごす退避壕の閉塞感に通じている。今日の上映時の暑さと臭さを善意に解釈するならば、退避壕の中で分厚い長袖の服を着ている天皇の暑さと、自ら訴える天皇の口の臭さを、観客によりリアルに感じてもらうための最大限の配慮である。

昼食後、新宿へ移動して『ゆれる』を観ようと思ったら、すでに立ち見だったのでやめた。私は『太陽』終了後すぐに移動して整理券をもらうべきだと思ったのに、J先生が「まず昼ごはん」と主張したのが敗因である。