バンガロールに来ちゃったの

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『海辺のカフカ』(村上春樹)+『村上春樹論』(小森陽一)

海辺のカフカ(上)(下)』読了(二度目だが、文庫は初めて)。話し方がナカタさんになりそう。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

村上春樹論 - 『海辺のカフカ』を精読する』(ISBN:4582853218)を読んで(id:xiaogang:20060603#p1)納得いかないところが多々あったが、引用されている範囲だけで判断するのは危険なので、『海辺のカフカ』を約4年ぶりに読んでみた。原文のコンテクストを理解したうえであらためて『村上春樹論』をみると、多くの部分で物語の解釈そのものに納得いかないうえに、その解釈に基づいてものすごく強引に著者の主張につなげているように思われる。時々、わざと作者の意図するところと逆に解釈しているのではないかと思えるくらいだ。

最初に『村上春樹論』を読んだとき一番気になったのは、「『海辺のカフカ』が暴力や戦争を〈いたしかたのないこと〉としている」ということだった。そのように解釈される根拠が全くわからなかったからだ。ひとつ例を挙げると、『海辺のカフカ(下)』に、次のような箇所がある。

「いいかい、戦いを終わらせるための戦いというようなものはどこにもないんだよ」とカラスと呼ばれる少年は言う。「戦いは、戦い自体の中で成長していく。それは暴力によって流された血をすすり、暴力によって傷ついた肉をかじって育っていくんだ。戦いというのは一種の完全生物なんだ。君はそのことを知らなくちゃならない」(『海辺のカフカ(下)』pp. 348-349)

村上春樹論』では、これを引用したうえで次のように述べている。

 …むしろ「戦いというのは一種の完全生物」という言い方によって、〈いたしかたのないこと〉であるという印象を強化する役割を担っているのです。(『村上春樹論』p. 160)

どういった根拠で、「〈いたしかたのないこと〉であるという印象を強化する」ということになるのだろうか。ここでカラスと呼ばれる少年が言おうとしているのは、「暴力によって暴力の連鎖を止めることはできない」ということだ。正義のための戦いや善意の戦いといったものは存在しない。それが戦いであるかぎり、暴力の連鎖に巻き込まれていくだけだ、ということである。少なくとも私にはそのようにしか読めない。

また、ここで引用したカラスと呼ばれる少年の言葉は、カフカ少年が「父を殺し、母と姉と交わる」という予言を実行したあとで、それが間違ったことだったという文脈で語られている。『村上春樹論』は、「カフカ少年にはタブーを破ることが許容されている」として批判しているが、タブーを破ることは許容されてはいない。

こういった正反対ともいえる解釈が起きるのは、小森陽一氏の視線と村上春樹の視線とが、ねじれの位置のようにすれ違っているからだと思う。小森氏はたぶん、人間の理性といったようなものにすごく信頼を置いている。だから、言葉によってやっていいことと悪いことを教えるというような役割を文学に求める。これに対して、村上春樹の文学は、理性といったものがそんなに信用できるものではないといったところを立脚点にしているように思える。

たとえば、国家が戦争を起こし、国民が動員される。兵士にさせられた国民は、戦争もしたくないし、人も殺したくないのに、殺さざるを得ない状況に置かれる。ただ単純にそういうものだったら、戦争をなくすことはたぶんもっと簡単だ。問題は、暴力の衝動といったものが、我々自身の中にあるということだ。小森氏は、「人間の一般的暴力と、国家が遂行する人為的な「戦争」という暴力とを無媒介的に短絡させる」(p. 49)ことを繰り返し批判する。しかしそれらが結びつくからこそ戦争が遂行され、いつまでたってもなくならないのだ。我々ひとりひとりの中にある理性的ではないものを見つめ、自分自身のものとして引き受け、乗り越えていくこと。それがなければ、暴力の連鎖や異常な犯罪といった我々の社会が抱える問題は、解決の糸口を見いだせないだろう。そしてそれができるのは、ひとつは精神医学といったものだと思うけれど、もうひとつは文学なのだと思う。

ところで『村上春樹論』では、何箇所か、高松が松山になっている。『海辺のカフカ』は、登場人物にうどんを食べさせるために高松を舞台に設定している。松山では元も子もない(『がんばっていきまっしょい』(asin:B000AHQFZ2)でもうどんを食べていたので、松山でもそれなりにうまいのかもしれないが)。