- 作者: 小森陽一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2006/05/11
- メディア: 新書
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この本が書かれた一番の動機は、『少年カフカ』(ISBN:410353415X)にメイルが収められた読者のほとんどが、『海辺のカフカ』から<癒し>を感じたことに強い危惧を抱いたからだ、と書かれている。そして、<救い>や<癒し>を感じた人にこの本を読んでほしい、と書かれている。私は<救い>も<癒し>も感じなかった(たぶん)ので、著者が想定している読者ではないようだし、この小説が<癒し>として受け止められたということさえ全く知らなかった(そもそも昨今の「癒しブーム」における「癒された」というのがどういうことなのかよくわからない。単なる流行便乗と語彙の貧弱さによるものが大半ではないかと思っているが)。また、『少年カフカ』もその元になったサイトも読んでいないので(『少年カフカ』を読んでみようと思ったのだが、現在は入手できないんですね)、その内容が危惧を抱くようなものなのかどうかは判断できない。そのことをはじめに断っておく。
著者の主張をすごく乱暴にまとめると、次のようになる。
- 『海辺のカフカ』は、<精神のある人間として呼吸する女たち>を認めず、天皇の戦争責任を一女性に押しつけ、日本のアジア侵略や九・一一後のテロとの戦いを<いたしかたのないこと>としている。
- それが読者に<癒し>効果をもたらしている。
- 村上春樹は、意図的に上述のようなメッセージを込めて『海辺のカフカ』を書いている。
読み終えての感想をひとことでいえば、かなり違和感のある本である(文中で述べられている著者の歴史認識等に対してはおおむね賛同するので、そういう方面での批判ではないことを一応断っておく)。『海辺のカフカ』を読んだのは発売直後だし、作品中で言及されている本も漱石のものしか読んでいない。したがって、「『海辺のカフカ』の読み」そのものについては、とりあえず「そのようにも読める」ということにしておく(論理が飛躍していると思うところが複数あるけれども)。
読みの詳細に立ち入らない範囲で私が感じた違和感は、大きくいって三つある。
まず第一に、これまで村上春樹の小説やエッセイの大半を読んできた者として、彼がそのような考えをもち、そのようなメッセージを込めた小説を書くということが、率直に言って全く信じられない。
第二に、テクストの分析によって導き出したものを、作者の意図だと断言しているのが納得できない。テクスト自体を分析した結果として「このように読める」と言うのなら、何を言ってもいい。だけど明示的に書かれているわけでもない、どうみても推測の域を出ない事柄を挙げて、意図的にそのように書かれているとして作者を断罪するのはおかしい(それが文芸批評として成り立つのだろうか)。著者みずから、
小説というジャンルの特質は、たとえ作者であっても、読者に対して、ある特定の読み方を強制することはできない、というところにあります。(p. 11)
と書いているにもかかわらず、この本は『海辺のカフカ』の読みを強制しているようにみえる。
第三に、著者の主張するところの作者の意図が、どうして<癒し>につながるのかが理解できない。著者はテクストの分析において、論理的因果関係に偏執的にこだわっているように見受けられるが、ここには少なくとも私が納得できるような論理的な因果関係は示されていない。そもそも、大多数の読者は著者のように詳細にテクストを分析していないだろうし、同じように解釈しているとも思えない。したがって、著者によるテクストの読みから読者の読後感は導き出されないだろう。
論理にこだわるわりに、偏執的でヒステリックな記述が多い。本当に読者を説得したいのなら、もっと冷静に淡々と論じたほうがいいのでは。まさかこれ、パロディかなんかじゃないでしょうね?