『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』読了。サハリン、台湾、韓国・北朝鮮、中国東北部、ミクロネシアを回った旅行記、『僕の見た「大日本帝国」- 教わらなかった歴史と出会う旅』(ISBN:4795843023)の写真中心版。
- 作者: 西牟田靖
- 出版社/メーカー: 情報センター出版局
- 発売日: 2006/02/24
- メディア: 単行本
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この本の著者は、歪んだ歴史認識をもっているとかいうわけではなく、基本的にはまっとうなことが書かれている。だけど、(前作もそうだったが)最初からずっと微妙な違和感があって、それは徐々に大きくなっていった。たぶん私の違和感は、次の三点から来るのだと思う。
1.について。私も台湾などで、お年寄りの日本語に接することがある。それはまず第一に、ある種の居心地の悪さを感じる体験である。また、「私はこれをどう受け止めればいいのか」と自問するような体験でもある。著者は、反日や親日が一面的には捉えられないといったようなことを書いていながら、流暢な日本語や親日的な態度に出会ったときに嬉しそうな雰囲気が感じられ、どうにも気になる。
2.について。私は建築史的な興味が第一だということもあり、神社にはあまり関心がない。一方、この著者は神社に異様に執着して、神社ばかり探している。ほかにもっと探すべきものがあるのにと思う。それに、それらの神社が戦後破壊されたりしたことについて、「迫害」と書いている。私も、植民地時代の建物や施設が、できるだけ残っていてほしいと思う。でも神社は、名前や使う人が変わってもそのまま使える銀行や学校とはわけが違う。もともとほしかった物でもなく、いやな思い出があり、もはや不要なものであり、他の用途にも転用しにくく、占有面積も大きい。残しておけというほうが無理だ。それを「迫害」という否定的な言葉で語ることに違和感を感じる。もちろん、何らかの理由で現在まで残っている部分については、歴史の記憶として保存するべきだと思う。だけどそれは、戦後50年以上経ったいまだからいえることだろう。宗教的、政治的な碑などに関しても同様だ。また、鳥居の一部が忠烈祠等の一部として利用されていることについて、「無惨さを感じずにはいられなかった」と書いているが、感情的な反応のように思われる。銀行が銀行として、学校が学校として使われているように、宗教施設は宗教施設にとして使われている、ごく当然の成り行きではないだろうか。
3.について。たしかに中国や韓国の博物館の展示は、日本のしたことが誇張されすぎているのかもしれない(私はそういったところに行ったことがないのでわからない)。私は愛国主義や民族主義が嫌いだから、中国の愛国教育といったものにも賛同はしない。それに著者は、ただ展示を見た素直な感想を書いているだけかもしれない。だけど、今の日本が真摯に過去を反省し、その上に立った国づくりをしているとは到底思えない以上、反日感情にはそれだけの理由がある。反感を抱くまえに、それをちゃんと受け止めることが必要なのではないだろうか。