実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』(西牟田靖)

『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』読了。サハリン、台湾、韓国・北朝鮮中国東北部ミクロネシアを回った旅行記、『僕の見た「大日本帝国」- 教わらなかった歴史と出会う旅』(ISBN:4795843023)の写真中心版。

写真で読む 僕の見た「大日本帝国」

写真で読む 僕の見た「大日本帝国」

かつて日本の植民地だった場所や日本が占領した場所を訪ね、その痕跡をたどることは、私も興味をもち、実際にやってもいることである(私は日本がらみのところだけにこだわっているわけではないが)。だから、前作もこれも、情報収集の意味で買った。前作もそうだが、予備知識のない人ほど楽しめる本で、ある程度知っていると物足りない。『写真で読む〜』は、タイトルのわりに文章が多いが、紀行文だった前作とは違って説明中心なので、もっと写真を増やし、写真に必要最小限の説明をつけるような形にしたほうがよかったと思う(この本だけの問題じゃないけれど、写真と説明が違うページにある読みにくい本はもううんざりだ)。

この本の著者は、歪んだ歴史認識をもっているとかいうわけではなく、基本的にはまっとうなことが書かれている。だけど、(前作もそうだったが)最初からずっと微妙な違和感があって、それは徐々に大きくなっていった。たぶん私の違和感は、次の三点から来るのだと思う。

  1. 流暢な日本語や親日的な態度に対する肯定的な雰囲気
  2. 神社に対する異様なまでの執着
  3. 中国や韓国の「反日的」なものに対する反感

1.について。私も台湾などで、お年寄りの日本語に接することがある。それはまず第一に、ある種の居心地の悪さを感じる体験である。また、「私はこれをどう受け止めればいいのか」と自問するような体験でもある。著者は、反日親日が一面的には捉えられないといったようなことを書いていながら、流暢な日本語や親日的な態度に出会ったときに嬉しそうな雰囲気が感じられ、どうにも気になる。

2.について。私は建築史的な興味が第一だということもあり、神社にはあまり関心がない。一方、この著者は神社に異様に執着して、神社ばかり探している。ほかにもっと探すべきものがあるのにと思う。それに、それらの神社が戦後破壊されたりしたことについて、「迫害」と書いている。私も、植民地時代の建物や施設が、できるだけ残っていてほしいと思う。でも神社は、名前や使う人が変わってもそのまま使える銀行や学校とはわけが違う。もともとほしかった物でもなく、いやな思い出があり、もはや不要なものであり、他の用途にも転用しにくく、占有面積も大きい。残しておけというほうが無理だ。それを「迫害」という否定的な言葉で語ることに違和感を感じる。もちろん、何らかの理由で現在まで残っている部分については、歴史の記憶として保存するべきだと思う。だけどそれは、戦後50年以上経ったいまだからいえることだろう。宗教的、政治的な碑などに関しても同様だ。また、鳥居の一部が忠烈祠等の一部として利用されていることについて、「無惨さを感じずにはいられなかった」と書いているが、感情的な反応のように思われる。銀行が銀行として、学校が学校として使われているように、宗教施設は宗教施設にとして使われている、ごく当然の成り行きではないだろうか。

3.について。たしかに中国や韓国の博物館の展示は、日本のしたことが誇張されすぎているのかもしれない(私はそういったところに行ったことがないのでわからない)。私は愛国主義民族主義が嫌いだから、中国の愛国教育といったものにも賛同はしない。それに著者は、ただ展示を見た素直な感想を書いているだけかもしれない。だけど、今の日本が真摯に過去を反省し、その上に立った国づくりをしているとは到底思えない以上、反日感情にはそれだけの理由がある。反感を抱くまえに、それをちゃんと受け止めることが必要なのではないだろうか。