実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『日中一〇〇年史 二つの近代を問い直す』(丸川哲史)

『日中一〇〇年史 二つの近代を問い直す』を読み終わる。

日中一00年史 二つの近代を問い直す (光文社新書)

日中一00年史 二つの近代を問い直す (光文社新書)

この100年の日中間の出来事に関連して、その時々の知識人がどのように悩んだかが、彼らの書いたテキストに基づいて語られている。紹介されている知識人は、孫文魯迅北一輝竹内好毛沢東、呉濁流、尾崎秀実、丸山真男など(かなりメジャーな人選だが)。最後の二章、冷戦と日中国交回復の章では誰も紹介されていないのは、もはや悩む知識人がいなくなってしまったということなのか。

なかなか面白い本である。いろいろと気づかされることも多いし、納得するところも多かった。特に、最後に述べられている次の点は重要だと思う。

 さて、ここで再び「反省」の意味を考えてみた場合、興味深いのは、この賠償の放棄について、日本側は交渉の中で何らのコメントも残していない、ということです。中国側が何の説明も加えていないことは、当然としても、日本側から何の応答もないこと自体、不思議に思われます。
 先に述べたように、中国語の語感からするならば、「反省」は結論ではなく、態度表明の宣言であり、これから身をもって「反省」の意を示すこととして理解されるはずです。だからその上で、賠償が当初から放棄されたということは、それ以外の「反省」の示し方について、日本側に下駄を預けたことを意味するわけです。
 つまり中国の立場としては、日本のその後の対応を見守る - どのような「反省」を見せるのかは日本側が考えるべきこと、としたのです。その意味で、この中国側から一方的に持ち出された賠償の放棄に関して、日本側が何の反応も示さなかったことで、「反省」を形にする機会をその端緒において逃した、ということになります。(pp. 231-232)

新書だし、わかりやすく書かれているので、わけもなく中国に反感を持っている人たちなど、多くの人に読んでもらいたい本である。

ところで、上の引用からもわかるように、この本は「ですます調」で書かれている。最近、新書などで時々見かけるが、ですます調には文体の楽しみというものが少ない。本を評価する主要な視点は内容と文体だが、ですます調だと文体の比重が下がってしまう。そのぶん文体の苦しみも少ないといえるのだけれど。話しているような感じになるので、長文でもわかりやすさが維持されやすいためかもしれないが、語尾が「です、ます」になっただけで、文章のリズムに鈍感にならされるのは不思議だ。