実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『月光の下、我思う』

2本目は、林正盛(リン・チェンシェン)監督の『月光の下、我思う』。60年代の台東郊外を舞台に、離婚以来母親として生きてきた女性が、緑島から来る娘へのラヴレターを盗み見るうちに、娘の恋人と緑島の監獄にいる前夫を、そして娘と自分を重ねていくという話。「お母さんだって女よ。そこ考えてあげなきゃ」ってやつである。

母親・寶猜(楊貴媚)は、日本統治時代に日本語教育を受け、夫と東京で暮らしていた(この設定にしては楊貴媚の日本語は下手すぎ)。現在の日常言語は台湾語だが、時々自然に日本語が出てくる。北京語はわからない。娘の西蓮(林家宇)は、東京生まれ、台湾育ち。家では台湾語を、勤務先の小学校では北京語を使っている。両親の離婚によって別れた父親は、現在緑島の監獄にいる。西蓮の恋人・朱成(施易男)は、幼少時に父親と台湾に渡ってきた外省人。母親と兄弟は今も大陸にいる。北京語しか話せない。このような主要登場人物の設定に、日本の植民地化から日本の敗戦による光復、ニニ八事件、国民党政権の台湾移転、白色テロまでの台湾現代史が見事に折り込まれている。西蓮と朱成が海辺を歩きながら互いの家族や生い立ちを語るシーンがあるが、そこには外省人本省人の対立よりもむしろ、ともに痛みを抱えた歴史の犠牲者であるといった共感が感じられる。

寶猜と朱成が共通の言語をもたず、筆談によってしか会話ができないということは、この映画の中で重要な意味をもつ。朱成が不在の西蓮を訪ねてきたとき、もしふたりが普通に会話することができたら、あるいは寶猜は自分の感情を抑えることができたかもしれない。メイルだと言いにくいことが言えたり、言わなくていいことまで言ってしまったりするのと同じように、筆談だからこそ彼女の言葉はだんだんエスカレートしていったのではないか。このあたり、寶猜が自分が書くのを待ちきれないかのように速度を上げていくところが迫力である。

前半の寶猜は厳格な母親という感じではあるが、別れた夫を激しく憎みながらも緑島がよく見えるところに住み、朝に夕に緑島を眺めて暮らしているところがそもそも恐い。西蓮が朱成に「なぜかわからないけれど、子供の頃から母が恐い」と言うシーンがあったが、西蓮も、寶猜の抑圧された部分といったものを直観的に感じていたのかもしれない。だからこの母子の生活は、もしかしたらこれからも表面上なにごともなかったかのように続いていくのかもしれないと思った。

原作は李昂の小説。今『自伝の小説』(ISBN:4336043841)を読んでいるところなので、非常にタイムリーだった。李昂原作ということでストーリー展開を予想しながら観ていたら、ほぼ予想した展開になった(李昂に関しては『中華モード』(ISBN:4883750515)が詳しい)。センセーショナルに、あるいはドラマティックに撮ろうとすればかなり違った映画になるだろうが、林正盛監督はいつもの淡々とした端正な画面づくりで、かえって効果的だと思う。陳明章の音楽もよかった。林正盛監督の映画は傑作揃いなのに、公開されたのは『台北ソリチュード』だけ。ぜひ本作(とオクラになったらしい『檳榔売りの娘(愛[イ尓]愛我)』)を公開してほしい。