バンガロールに来ちゃったの

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2010年08月19日のつぶやき

『一瞬の夢(小武)』(賈樟柯)[C1997-38]

遅めに出京して新宿へ。新宿のはあまり好きではないけれど、Meal MUJIで昼ごはんを食べて、新宿K's cinemaへ。「中国映画の全貌2010」(公式)の5回券の最後の一枚で、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の『一瞬の夢』を観る。公開時に観てから10年ぶりの再見。もちろんDVDももっているが、ほとんど観ていない。

一瞬の夢 [DVD]

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今となってはおなじみの王宏偉(ワン・ホンウェイ)演じるスリの小武を主人公に、彼が故郷の汾陽で過ごす数日を描いたもの。その一見たわいもない物語のなかに、一地方都市が改革開放で市場経済と高度情報化社会に飲み込まれつつあるさまと、そこに暮らす人々の息づかいが見事に捉えられている。

皆がお互いを知っている狭い世界から脱しつつある混沌とした世界。ローカル局のテレビ番組やポケベルといった新しいメディア。もの珍しい商品や新しい商売とともに訪れつつある消費社会。小武はそんな時代の変化にうまくついていけない。そしてそういう自分を冷ややかに眺めつつ、コンプレックスも隠せないでいるかなりヘンなやつ。

小武の兄弟の女性関係を見ただけでも、社会の変化がうかがえる。兄嫁はおそらく、知人の紹介とかそういうので結婚した女性で、まだ子供も小さいのにもうおばさん以外の何者でもない。小武はといえば、彼女いない歴二十何年という感じで、相手にしてもらえるのは水商売の女性だけ。それも一瞬の儚い夢に終わる。一方弟は、いい職について都会で働いて、都会の裕福な家庭の娘をたぶん自力でゲット(ただし結納金は自力では払えない)。

賈樟柯の故郷である汾陽のたたずまいがすばらしい。もっと都市化の進んだ最近の地方都市のような、簡体字みたいにスカスカした街並みとはぜんぜん違う豊かな風景。舗装されていなくて、やたらと黄色い土の色が印象的。

『プラットホーム』[C2000-19]や『四川のうた[C2008-23]で時代を彩った流行歌を楽しんだり、『長江哀歌』[C2006-21]で吳宇森(ジョン・ウー)の引用に熱狂したりしてきたけれど、そんなものは全部、この映画でとっくに登場していたのだった。王菲の“天空”だけは印象に残っていたけれど、実はほかにもいろいろ使われていた。

『シルビアのいる街で(Dans la Ville de Sylvia)』(José Luis Guerin)[C2007-52]

渋谷へ移動して、シアター・イメージフォーラムホセ・ルイス・ゲリン監督の『シルビアのいる街で』(公式)を観る。

若山富三郎がカフェで藤純子を見かけたと思い、「お竜はん、お竜はん」と呼びながらつけ回したら、実はニセお竜だった。翌日若山富三郎は、お竜はんのことは忘れてニセお竜を探しはじめる、というお話。と書くと、「目標レベルをさげたのか?」と言われそうだが、映画に登場しないシルビアと、ニセシルビアとのあいだには、藤純子と沢淑子のような落差はたぶんありません。

舞台はストラスブール。路地の突き当たりを小津風に人が横切ったり、同じ路地をぐるぐる歩いたり、路面電車に乗ったり、気づいたら自分もシルビアを追って、大股で早足に歩き回っている85分。なかなか楽しい。

この映画の魅力はなんといっても音。音を聴いただけで、路地を歩いているのか、大通りを歩いているのかがわかる。リアルなようでいて、現実にはぜったいにそんなふうには聴こえない、そんな音。大きな音は実際より小さめに、小さな音は実際より大きめになっていて、大きな音にかき消されてしまうはずの音も全部、重層的に聴こえる。通りすがりの人の話し声が聴こえたり、シルビアを追う青年の動きが音によってわかる。

この映画のよくないところは、主役を演じる俳優。シルビアを演じるピラール・ロペス・デ・アジャラもいまひとつ好みではないけれど、青年を演じるグザヴィエ・ラフィットがちょっと苦手。年齢不詳でいまひとつ若さがないし、だいいち21世紀のひとに見えないし、画家っぽいといえば画家っぽいけれど、なんか理系っぽい。この男にストーキングされたらちょっと怖いと思う。

ところで、監督がスペインの人だから邦題が「シルビア」なのだろうが、舞台はフランスで、フランス語の映画なのだから、やはりここは「シルヴィア」とすべきだったのではないだろうか。

映画館を出ると、今度はシルビアになったつもりでがしがし、すたすた歩いて渋谷駅へ。向かったのは目黒のとんき。今月もひれかつを食べられた。ごちそうさま。